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平安京御所に伝説の馬を描いた宮廷画家「巨勢金岡」

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巨勢金岡(こせの かなおか)は、平安初期の宮廷画家で巨勢派の始祖。
唐絵を描いていましたが、やがて、大和絵と呼ばれる絵画を描くようになりました。しかし、巨勢金岡が描いたことが確実であるとされる絵画が残っていません。理に合わないことです。

日本固有の大和絵を創りだした巨勢金岡が、どのような活躍をし、その後の日本の絵画の世界に対しどのような影響を与えたかも考えてみたいと思います。

目次

巨勢金岡とは?

巨勢氏は、現在の奈良県高市郡高取町西部を本拠とした古代豪族であり、巨勢金岡は平安前記の中納言巨勢野足(こせののたり)の曾孫にあたり、大阪府堺市北区金岡町に巨勢金岡を祀る金岡神社がある。
巨勢金岡の墓と伝えられる場所が岡山県岡山市東区の西大寺にあり、曾祖父の巨勢野足が備前国司として赴任していたことがあるので、岡山市は巨勢金岡と縁があったのかもしれない。

巨勢派としては巨勢金岡の子である巨勢相覧(こせのおうみ)や飛鳥部常則(あすかべのつねのり)などの名が知られているが、巨勢金岡を含むこれらの人々が描いたことが確実であるとされる絵画が残っていない。
神泉苑の監修の過程で菅原道真と知己になり、中国風の画題のほかに日本的な画題も扱うようになったようで、その結果、日本的な風光を描くようになったという。

巨勢金岡は画才を朝廷に認められ、宇多天皇や藤原基経の恩顧を得て活躍し、宮廷の神泉苑を監修し庭園の石組みなども指揮した。つまり、後世の庭師のようなことも行ったことになる。

巨勢金岡の伝説

巨勢金岡が最も得意としたのは馬の絵であったと言われている。
馬の絵については、以下のような伝説があって、その内容は古今著聞集にも記載がある。

内裏清涼殿の一室「萩の戸」という部屋の壁に、巨勢金岡が筆を揮って描いた絵があったが、その絵の中に馬が素晴らしく描かれていた。
その頃、近辺の田が食い荒らされる事件が多発し、人々は誰の仕業であろうかと監視していた。ある時、絵のなかの馬の脚が泥で汚れていることに気づいて、絵のなかの馬の眼を掘り抉った。これによって馬が田を食い荒らすことはなくなったという。

この伝説を奇怪と感じるよりは、むしろ、現役時代これだけ活躍した巨勢金岡の絵が一枚も残っていないということの方を不可思議なことだと感じます。

板材上に描かれた歴史上著名な画家の虎の絵を見たことがありますが、古い絵であるため虎の輪郭の明瞭さが失われてきており、そのことでかえって、板の中に虎の魂が潜んでいてこちらを視ているような感じを受けました。
生霊や死霊の存在が必ずしも否定されていなかった時代に、巨勢金岡の筆による絵を夜間に燭台の光の中などで見た人は、恐怖心をいだいたのかもしれません。

何故残っていないのか?

おそらく巨勢金岡を含む巨勢派の人々は絵画を描くことが楽しく、できれば見物している人達の前で躍動する馬などをいきいきと描くことを喜びとしていたのではないか?

極端なことを言えば、描いてしまった後はその絵画に強い執着心をもたなかったのかもしれません。
しかし日本のどこかに、巨勢金岡の手も入っている絵画が現存しているような気がします。

featured image:Hannah, Public domain, via Wikimedia Commons

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