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豊臣秀頼と息子国松の生存説

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歴史上の人物の生存説って、けっこうあるんですが、豊臣秀頼とその息子の生存説をご紹介しますね。

目次

豊臣国松

豊臣国松は豊臣秀頼の息子で、母は側室なので庶子です。
豊臣秀頼は8歳の時に、父秀吉の遺言で徳川家康の孫千姫5歳と結婚していたので、側室が産んだ国松は正式に認められていない存在でした。

なので秀頼の母淀殿の妹の京極氏と結婚した常高院のもとで育てられ、大坂冬の陣のときに大坂城へ入って父秀頼と初対面。
そして大坂夏の陣で大坂城が落城したのち、乳母やその夫らとともに逃亡後、伏見で捕らえられて8歳で処刑されたということになっています。

ちなみに父秀頼は大坂夏の陣の時は数え年の23歳だったので、国松は父が数えで15歳の時に生まれたということに。

秀頼にはもうひとり

秀頼にはもうひとり側室が産んだ当時7歳の娘がいて、落城後に捕らえられて処刑されるところを、正室だった徳川千姫の助命のおかげで鎌倉の東慶寺で天秀尼として一生を送りました。
もうひとり、求厭(きゅうぐ)という浄土宗の僧が、80歳での臨終の間際に、自分は秀頼の息子で国松の弟だと告白したという話もあります。

で、秀頼と母淀殿らは、大坂夏の陣の落城時に山里曲輪という城の一角の糒蔵に立てこもり、千姫を助命嘆願に出したものの、取り囲んだ徳川軍から発砲されて全員が自刃して火を放ったという最期でした(つまりはっきりと遺体確認できていないわけです)。

この秀頼と国松が生存して、九州の日出藩(ひじはん)木下家(秀吉の正室北政所寧々の兄の息子)に匿われ、木下家の分家として一生を送ったという生存説があるんですよね。
しかも、この木下家の子孫の方の「一子相伝」の口伝として伝わった秘密ということです(「豊臣家存続の謎」より)。

救出のため

木下家は大坂の陣の時にはもちろん徳川方で「備前島」という場所に陣を敷いたのですが、なんと大坂城からの秘密の抜け穴の出口があるので、秀頼や国松たちの救出のためだったということも伝わっていて、普通の生存説とは違う信ぴょう性を感じます。

そして秀頼と国松は、真田信繁(幸村)の息子大助らとともに、四国経由で薩摩国に渡り、秀頼は宗連と号して45歳まで生存(単なる迷惑な酔っ払いだったよう)、国松は、日出藩初代藩主延俊が自分の次男として分家を起こさせて明治まで続いたということに。
大坂城落城後、「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」という童謡が京都で流行したといわれています。

真田信繁

真田信繁(幸村)は小柄で、秀頼は197cm161kgの肥満体だったことを考えるとあり得ないけれど、実際に関ヶ原合戦後に西軍の宇喜多秀家は薩摩に逃亡し、3年後、噂が広まったために投降して八丈島に流刑になったこと、大坂城落城後、大野治長の弟の治房、明石全登ら生死不明者がけっこういることを思えば、ほぼ世間に顔を知られていない秀頼親子が九州に逃れて生きていたこともあり得ない話ではないでしょう。

また、木下家は北政所寧々の実家なので、寧々の子でもない秀頼や国松にそこまでする義理があるのかと思うのですが、今とは価値観が違う親戚付き合いがあったのかも?
そして穴山小助が掘り出したという、多田銀山の埋蔵金付き(残りの埋蔵金の秘密も)だったと考えると、江戸幕府に取り潰される恐れがあっても、守る価値があったかもしれないと思いましたです。

※画像はイメージです。

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