幕末に暗躍した?久邇宮朝彦親王

  • 2021-07-16
  • 2021-07-11
  • 戦史
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幕末に暗躍したマイナーな人物で、その後があまり知られていないがけっこう興味深いのでご紹介しますね。

この方は、色々な名前で知られる皇族のひとりです。
幕末明治維新に活躍して名前が登場するのですが、青蓮院宮尊融(そんゆう)法親王、粟田宮、獅子王院宮、中川宮、賀陽宮(かや)、すべてこの方のお名前です。
伏見宮邦家親王の第4王子として誕生しましたが、なんときょうだいは女15人、男16人、成人したのは21人です。
なお、明治に存在した、東伏見宮とか北白川宮、華頂宮宮家などは、有栖川宮家をのぞき、すべてこの伏見宮家邦家親王の息子たちが創立したものです。

それで朝彦親王、この名前を名乗ったのは明治後ですが、便宜上、朝彦親王でいきますね。
ウィキには母親が「鳥居小路信子」とありますが、「小路の女」とか「母不明」(父がわからなくても母はわかるはず、よほど身分が低いのだろうという説明が)という説あり。

皇族や公家の生まれでも、母の身分が低いと邪険にされるのがデフォでした。
朝彦親王の兄弟は、聖護院とか大きなお寺の門跡となった人もいるのに、朝彦親王は、小さいうちから寺へ小僧として出され、使い走りもさせられたという話なんです。
皇族のお坊ちゃんという扱いではないですよね。

久邇宮朝彦親王
■久邇宮朝彦親王 RSSFSO, CC0, via Wikimedia Commons

日本の場合、殿さま育ちは間違った育て方をされてバカ殿になることが多いため、朝彦親王にとってはこの苦労が身についたことはたしかです。
12歳の頃、ときの仁孝天皇が見込んで猶子とし、親王宣下を受けたのちに道が開けてきました。
奈良興福寺一条院の門主となり、その後青蓮院門跡、天台座主にも就任。
しかしペリーの黒船来航で騒々しくなった頃、朝彦親王、政治に首を突っ込んで大老井伊直弼ににらまれ、安政の大獄に巻き込まれて「隠居永蟄居」となりました。

その後は井伊大老の暗殺で復帰、国事御用掛として朝政に参画するようになり、文久3年(1863年)には還俗して中川宮を名乗り、孝明天皇のアドバイザー的な存在として公武合体派として暗躍するのですね。
朝彦親王は、薩摩藩が会津藩と手を結び、当時長州派の公家を使って朝廷で偽の勅許を連発するなどでブイブイ言わせていた長州藩を追い落とした8月18日の政変で中心的役割を果たしたことで有名です。
しかし14代将軍家茂、孝明天皇が相次いで急死、15代将軍慶喜が就任、幕府軍による長州征伐が失敗、大政奉還に王政復古、戊辰戦争と激動の明治維新となったとき、朝彦親王は復権した三条実美や岩倉具視らの長州派公家や長州藩に、いわば復讐されてしまったのです。

朝彦親王は、なんと明治元年(1868年)8月、徳川慶喜へ密使を送るなどの陰謀を企てた罪で親王位を剥奪、平民の地位に落とされ、広島藩預かりとなり、翌年、安芸国で幽閉されることになったのです。
この幽閉は明治3年10月には京都の伏見宮邸に護送されたし、明治5年1月には謹慎を解かれて、身分も伏見宮家の皇族に復帰したので、わずか数年間でしたが…。

どこかの本で読んだのですが、ある明治の元勲が「あの人(朝彦親王)がいれば、維新の邪魔になる」というコメントをしていたのが忘れられません。
明治後の朝彦親王は、明治8年には久邇宮を創設したが、東京へは行かずに京都に居住し、伊勢神宮の祭主に就任、皇學館大学の創始者となったということです。

また、元治元年(1864年)7月15日から慶応3年(1867年)9月29日まで7巻20冊の「朝彦親王日記」という貴重な記録を残していることでも有名です。
ところで、大正天皇は貞明皇后との間に4人の親王が誕生しましたが、次男秩父宮妃は会津藩主松平容保の孫、三男高松宮妃は15代将軍徳川慶喜の孫(母が有栖川宮家出身なので高松宮は有栖川宮の祭祀を継承)、そして皇太子妃(のちの香淳皇后)は久邇宮朝彦親王の孫なんですね。
これが偶然のはずがない、明治維新の借りを返した、いや明治大正の頃に、次世代の日本の将来を考えたうえでの心憎い縁組だったのではと思いましたです。

eyecatch source:RSSFSO, CC0, via Wikimedia Commons

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