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忘れられた?!宮中某重大事件の闇

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大正時代に起こった忘れ去られた事件を調べると、意外なことがわかりましたのでご紹介しますね。

目次

宮中某重大事件

これは大正時代に当時の裕仁皇太子と久邇宮良子女王、後の昭和天皇と香淳皇后の婚約後に起こった事件です。
当時は新聞など報道規制がされていたので、一般には知らされないところでどろっどろの展開をしました。

大正8年6月に婚約内定して記事が報道された後に、学習院の身体検査で良子女王の弟に色覚異常が発覚。
兄も色覚異常と判明し、良子女王の母方の叔父島津忠重も色覚異常がみられることで、島津家の祖母からの遺伝とされたのです。

これを学習院の医師が陸軍医に言いつけたので、陸軍の重鎮の山縣有朋の耳に入ったわけです。
山縣は、色覚異常では軍人不適格→良子女王が産む予定の将来の天皇がそれでは困る→久邇宮家に婚約辞退を迫る
ということになり、久邇宮家でも山縣から圧力をかけられたら辞退しないわけにいかないのでその方向に行きかけました。

しかしここで裕仁皇太子や良子女王に倫理、修身を教えていた杉浦重剛の耳に入ったんですよね。
この人は、儒学者の家に生まれてイギリスへ留学して化学を勉強後、東大などで英語を教えて日本中学校などを創立したという国粋主義的教育者でした。

杉浦重剛

この杉浦は、久邇宮家の立場に立ち、「一度決めた婚約を解消するのは天皇の徳を傷つける」と猛反発。
久邇宮邦彦王も3代経つと色覚異常は消えるという医学的に根拠のない診断書などをもとに、貞明皇后に直訴するなど徹底抗戦の構えになりました。

杉浦は自分の弟子たちや山縣のライバルの大隈重信や政治家にもこの報道規制されていた「皇太子妃婚約辞退」の噂を言いふらし、婚約続行を働きかけたのです。
事件の元は良子女王の婚約を辞退するか続行するかでしたが、山縣は長州閥の元老なので、この機会を利用して山縣の敵対勢力が藩閥を倒そうという動きにまでなったということです。

その後は来原慶助という人物が久邇宮家の職員の話をもとに書いた山縣の圧力で婚約解消になると批判した「宮内省の横暴不逞」という怪文書が飛び交い、国粋主義者たちが打倒山縣で決起するなどの事態になりました。
おそらくは政治家や皇族にも暗殺の脅迫などがあったのでしょう、当時の原敬首相もこの事態を重く見て、事態収拾に動いたそう。

婚約解消論

山縣は婚約解消論を引っ込めて蟄居し、宮内大臣が辞職して責任を取り、大正10年2月に婚約に変更なしと宮内省が発表して事態は収拾しました。
しかし久邇宮邦彦王という人は、勝ち誇っちゃったらしく、その態度が貞明皇后を怒らせました。

貞明皇后が内定であって決定でないと言い出したんですね。
ここでまた宮内大臣が説得し、貞明皇后は泣く泣く認めたということです。
渦中の昭和天皇と香淳皇后は、婚約中とはいえたった一度儀礼的に会って挨拶しただけなので、よく言われるように昭和天皇が「良子でよい」と愛があって婚約解消問題を解決したみたいに言われるのは違うと思います。
それに怪文書を書いた来原慶助には、久邇宮家から5千円が払われたというのがわかっているのもすごいです。

それにしても

それにしても皇室の悪口を書いたりすると銃弾で、というのが昭和の時代にあり、皇室大事の気持ちがあるのだと思っていましたが、色覚異常を皇室に持ち込むなと脅すのではなく、婚約解消するなと脅すのはなんでなのかなと不思議です。

宮中某重大事件は昭和天皇と香淳皇后が幸せな結婚生活を送られたので、あまり取り上げられないですが、調べてみると闇が深いなと感心しましたです。

featured image:English: Tokyo Asahi Shimbun日本語: 東京朝日新聞, Public domain, via Wikimedia Commons

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