愚将と言われた男たちの晩年

日露戦争、旅順攻防戦で戦った乃木希典とステッセル。
人物、国策としての英雄視は別として、彼らの指揮官としての評価は決して高いものではありませんでした。
しかし彼らには意外な共通点があったのです。

アナトーリイ・ステッセルはドイツ系男爵の家に産まれ、露土戦争、義和団の乱では現場指揮官として実績を積んで旅順要塞司令官となります。
同じく乃木希典も、佐賀の乱、西南戦争、日清戦争で現場指揮官として活躍し第3軍司令官になりました。
どちらも実戦を経て昇進した現場型指揮官だったのですね。

■乃木希典Unknown author – Restorred by User:Adam Cuerden / Public domain

彼らは旅順要塞を守る側、攻める側として戦います。
結果はさておき、ステッセルは敗軍の将として世間から批判を受け後世の歴史家からも愚将との評価が多いのですが、彼は野戦築城、防衛戦の専門家でもありました。

部下のコンドラチェンコを全面的信頼し、作戦指揮は彼に一任していました。
彼の戦死が旅順降伏のメンタル的な側面になったと言われるほどです。
またロシア軍に壊血病が蔓延したことも降伏の一因とされています。

■アナトーリイ・ステッセリUnknown author / Public domain

一方の乃木も、正面攻撃にこだわり多数の死傷者を出し続けたりと作戦能力を疑問視する評価も多々あります。
しかし彼は実直に、正攻法で要塞を攻め落とすことで不名誉を返上したのです。

1905年元旦、ロシア軍は降伏します。
5日に行われた水師営の会見で乃木とステッセルは対面します。
彼らはお互いに健闘をたたえ合い、乃木は敗軍のステッセルに帯刀を許し記念撮影を行いました。
ステッセルも乃木の儀礼に感謝し、愛馬と愛用のピアノを贈ったとされています。

Unknown author / Public domain

戦後も彼らは交友し、乃木の死に際してステッセルは匿名で香典を贈っています。
また、戦後ロシアで死刑判決を受けたステッセルの助命嘆願を行ったことから彼は特赦されています。

果てしない消耗戦の幕開けを予感させた旅順攻防戦で戦った指揮官が共通して持ち合わせていたもの。
それは武士道、騎士道の精神です。
敵として全力で戦い、戦った後は互いをリスペクトし合うというどこか牧歌的なところでした。


サバゲー、コスプレ、戦史研究にハマってます。

eyecatch source:Unknown author / Public domain

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