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無実の叫びと死刑執行~リンドバーグ愛児誘拐事件(前編)

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チャールズ・リンドバーグがサンドイッチと水筒と1700リットルのガソリンをスピリット・オブ・セントルイス号に積み込んで、大西洋単独無着陸飛行に成功したのは25歳のときだった。
5年後、彼は悲劇の父親として世界中の同情を集める。生後20か月の長男が何者かに誘拐されたのだ。身代金が支払われたにもかかわらず、息子は戻ってはこなかった。容疑者は逮捕され、電気椅子に送られて事件は幕を閉じる。
当時から現在にいたるまで、死刑冤罪の疑惑がくすぶりつづけるリンドバーグ愛児誘拐事件である。

被告人は移民の大工で、前科者だった。
悲劇の父親は大空の英雄で、アメリカの良心だった。
この事件を裁いた法廷は、ナザレの大工をゴルゴタの丘へ送った2000年前の審判と同じ目的のもとに進行したのではなかったか。

目次

窓に残された脅迫状

事件は1932年3月1日火曜日、ニュージャージー州のリンドバーグ邸で起きた。
この日、リンドバーグは早朝から仕事にでかけ、夜になって帰宅する。1歳の息子チャールズ・オーガスタス・リンドバーグ・ジュニアは週明けから風邪気味で元気がない。看病は妻アンとベビーシッターにまかせきりになっていた。
「ただいま。ベティ、ジュニアの具合はどうだい?」
「お帰りなさいませ。よく眠っておいでですよ。お熱もありません」
「そうか、よかった」
ひと安心して、妻と夕食のテーブルについた。すると突然、家の外でバキッと木が折れるような音がした。
「なんの音かしら?」
妻と顔を見合わせて、二人で耳をすましてみる。が、それきりなにも聞こえない。風の強い夜だった。
「風だろう。なにかが倒れたんじゃないか」
この会話を交わしたのが21時を少し回ったころである。

22時、ベティがジュニアのようすを見に2階の子ども部屋をのぞく。明かりの消えた暗い部屋で、なぜかカーテンが揺れている。
「窓は閉めたはずなのに。風で開いたのかしら」
窓を閉め直してベビーベッドに目をやると、ジュニアがいない。ベティはわが目を疑った。ベッドが空になっている!
すぐさま夫妻の寝室に駆けつけた。
「奥さま、坊やはこちらですか?」
「いいえ、いないわよ」
「では旦那さまのところでしょうか? 坊ちゃまが部屋にいないのです!」
書斎のリンドバーグに知らせると、彼も血相を変えて階段を駆け上がった。

ベッドはまだ温かい。枕にはジュニアの小さな頭のへこみが残っている。カーペットには泥のついた靴跡、窓の外には木製の三つ折りの梯子。桟に置き手紙がはさんである。それは下手くそな字でこう書かれていた。

「ご主人へ。5万ドルを用意しろ。2万5千ドルは20ドル札、1万5千ドルは10ドル札、1万ドルは5ドル札にすること。金の受け渡し場所は追って伝える。警察やマスコミには知らせるな。赤ん坊は無事だ。こちらからの手紙であることの印に三つの円のマークを使う」

リンドバーグが叫んだ。
「この部屋のものには手を触れるな!」
身代金目的の誘拐か。上等だ、いくらでも払ってやる。あの子さえ無事に返してくれるなら。

初動捜査

警察には知らせるな、という犯人の指示だったが、もちろん警察には通報する。
しかし現場には梯子と手紙と足跡が残されていただけで、指紋は検出されなかった。2種類の足跡から、複数犯の可能性が浮上する。犯人は大胆にも、両親の在宅中に梯子を使って2階の窓から侵入し、ベッドで眠るジュニアを連れ去ったのだ。
梯子はぞんざいに作られた粗悪品で、折れて壊れており、真下の地面にくぼみが残っていた。下りるときに折れて転落したらしい。食事中に聞こえた木の折れるような音。あのとき犯人はジュニアを抱えて、まだここにいたのだ。窓を開けて外さえ見ていたら。

身代金要求の手紙を分析したところ、教養のない、英語に不慣れな、ドイツ系移民という犯人像が浮かび上がった。稚拙な筆跡、ドイツ人特有のスペルミス。末尾には三つの円のマーク。これが犯人の言う「自分のサイン」というわけだ。

事件はまたたく間にマスコミに嗅ぎつけられて、センセーショナルに報じられた。
「大空の英雄、愛児誘拐さる!」、「本当に身代金目的か?」、「悲嘆にくれる夫妻」。
これ以上に大衆を惹きつけるネタがあるだろうか。夫妻のもとには全米から同情と励ましの便りが殺到し、自宅にはFBIや地元警察、報道陣が入れ替わり立ち替わり押し寄せた。
犯人からの次の連絡はまだこない。4日後にようやく届いた手紙には、案の定、通報したことへの怒りがつづられていた。

「騒ぎになったな。騒動がおさまるまで取引には応じない」

長期戦も辞さないという意思表示ともとれる。
リンドバーグは考えた。犯人との交渉に警察が介入したら裏目にでるのではないか。蛇の道は蛇というではないか。こういう場合は、裏社会に顔のきく第三者が間に入ったほうがあっさりと解決するかもしれない。
マスコミを通じて協力者を募ったところ、暗黒街のピッグネームが「わたしがご子息を取り戻そう」と名乗りでてくれた。が、その交換条件が「釈放」だったため実現はかなわなかった。ちなみに、この時期に獄中にいた超大物にアル・カポネがいる。

誘拐犯との接触

1週間が過ぎたころ、事件が進展しないことに業を煮やした一人の紳士が仲介役を買ってでる。当年とって72歳の教育家、ジョン・コンドンである。犯人はほくそ笑んだにちがいない。なにせ相手は捜査の素人で、犯罪の「は」の字も知らない堅気の人間、しかも老いぼれときている。
コンドンが新聞広告を通じて「連絡がほしい」と犯人に呼びかけたところ、さっそく例のマーク付きの手紙が届いた。
「5万ドルが用意できたら、また広告をだせ」
その晩、1本の電話がかかってきた。
「毎日18時以降は自宅に待機していろ」
電話の相手はドイツ訛りのある男だったが、このとき背後で別の男がイタリア語で話すのをコンドンは耳にした。ドイツ系とイタリア系の複数犯か。

リンドバーグ側は5万ドルが用意できたことを新聞で伝えるとともに、まずジュニアが無事である証拠を提示するよう要求した。
ほどなくして犯人からの小包が届く。身代金の受け渡し方法が書かれた紙とベビー用パジャマが入っていた。パジャマはあの夜、ジュニアが着ていたものであることが夫妻によって確認された。
4月2日、受け渡し場所にリンドバーグとコンドンの二人が向かう。警察も同行を提案したが、リンドバーグはこれを断っている。

ここで、どうにも釈然としない点がある。なぜリンドバーグはあっさりと取引に応じたのか。
あなたは誰かのパジャマを見ただけで、その持ち主の無事を確信できるだろうか。送り主が犯人であることは疑いようがないのだが。
このリンドバーグ事件については、そもそも誘拐などは起きておらず、リンドバークによる自作自演とみる向きもある。驚くべき話だが、これが真実なら、騒動を早く終わらせるために打った芝居ととらえることもできる。狂言説については後編で検証してみたい。

森の中の小さな遺体

犯人の指定した花屋の店先のテーブルには次の指示が書かれたメモが置いてあった。
「この先を少し行ったところに墓地がある。そこで待つ」
墓地に着くと、「こっちだ!」と声がして、暗闇の中から覆面の男があらわれた。
「金は持ってきただろうな?」
「まて。その前に、あの子はどこだ?」
「まあ、そう急ぎなさんな。居場所はここに書いてある」
男はメモを手渡し、身代金を受けとると、ふたたび暗闇に姿を消した。

二人はすぐに警察に連絡し、ジュニアを乗せたヨットが停泊しているというマサチューセッツ州の島を捜索する。が、そんなヨットはどこにもない。まんまとだまされた。

5月12日、いちばん恐れていたことが現実となる。
リンドバーグ邸から8キロメートル離れた森で、トラック運転手が雨風にさらされた乳児の死体を発見。腐乱が進み、虫に食い荒らされて、見るも無惨な姿だった。身につけていた下着が決め手となり、夫妻によってジュニアと確認される。
遺体の状況から、誘拐直後に死亡したものと推定された。身代金交渉を重ねていた時点ですでに死んでいたのだ。
憤ったのはリンドバーグだけではない。全米が悲劇の父親に同情し、犯人を憎んだ。

リンドバーグ紙幣

これまでは人質の安全確保を最優先し、犯人を刺激しないよう捜査手法を選んでいた警察だったが、ジュニアが遺体で発見されるにいたって、強引ともいえる捜査に舵を切る。
犯人に渡した紙幣の番号は、もちろんすべて控えてあった。俗にいう「リンドバーグ紙幣」である。警察は紙幣番号の一覧表をつくり、全国の銀行、郵便局、ガソリンスタンドに配布して協力を呼びかけた。

ほどなくして、ニューヨークでリンドバーグ紙幣がちらほらと発見されはじめる。
捜査線上に一人の男が浮上したのは、ジュニアが連れ去られて2年半が過ぎたころだった。
この男こそ、のちに「史上最悪の冤罪疑惑」の主人公となるリチャード・ハウプトマンである。

・・・・・・・・・・つづく

featured image:Lindbergh baby kidnapping poster, issued March 11, 1932, Public domain, via Wikimedia Commons

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