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無実の叫びと死刑執行~リンドバーグ愛児誘拐事件(後編)

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アガサ・クリスティは1934年に『オリエント急行の殺人』という極上のミステリを上梓した。物語の終盤には、ひとつの命題が顔をだす。
「法による正義が行われないとき、自らの手による正義の執行は是か非か」。

かの有名なトリックはミステリファンなら知らぬ者はないだろう。だが、クリスティ女史が実際の事件に着想を得てこのストーリーを練りあげたことはあまり知られていない。2年前のリンドバーグ愛児誘拐事件である。

目次

犯人逮捕

ジュニアの遺体が発見されて2年あまりが過ぎた1934年9月15日のこと。
マンハッタンのとあるガソリンスタンドで、一人の客が10ドル札で料金を支払った。店長はリンドバーグ紙幣のことはもちろん知っていたし、犯人はドイツ系の可能性が高いことも報道で知っていた。その客のドイツ訛りが気になった店長は、受けとった紙幣の番号と車のナンバーを書きとめて、近くの給油係に声をかけた。
「悪い、ちょっと番号を調べてみてくれないか? なんだか嫌な予感がするんだ」
すでにリンドバーグ紙幣はちらほらと発見されていたが、いずれも支払った人間を特定できずにいた。割りだすことができたのは、車のナンバーが判明したこの客がはじめてである。

車の所有者はリチャード・ハウプトマン、35歳。ドイツ出身で、現在はブロンクス在住。職業は大工。妻と幼い子どもの三人暮らし。渡米前に強盗の前科あり。しかも不法入国者。警察が見立てた犯人像に、ここまで応えてくれる男がいるだろうか。
ただちにハウプトマンは逮捕され、家宅捜査が行われた。すると、車庫から1万ドルを超えるリンドバーグ紙幣を発見。物置の戸棚には仲介役コンドンの電話番号が書かれている。文章を書かせてみれば、脅迫状と同じスペルミスをする。大工なら梯子をつくるのも造作ない。さらに、なぜか2年前に大工の仕事を辞めていた。時期として、ちょうど身代金受け渡しのあとにあたる。
「凶悪犯がやっと逮捕されたぞ!」
「こんなやつは社会の敵だ、せいぜい罪を償ってもらおうじゃないか!」
こういうとき、わたしたちは往々にして正義感を履き違える。逮捕され、正体をあらわした人間を犯人だと思いこむ。まだ裁判がはじまってもいないのに。
メディアも扇情的に騒ぎ立てて大衆を煽る。

年が明けて開廷した裁判で、ハウプトマンは誘拐と殺人の容疑をすべて否認し、一貫して潔白を主張した。今となっては、その言葉に再考すべき点がたくさんある。

犯人は俺じゃない!

まずは自宅から押収されたリンドバーグ紙幣について。
ハウプトマンは、これらの紙幣は自分が金を貸していた仕事仲間のイシドア・フィッシュから拝借したものだと説明した。
フィッシュと自分はドイツ生まれであること。1932年にアメリカで一緒に事業をはじめたこと。翌年にフィッシュが母国に帰り、ほどなくして死んだこと。そのあとで、彼が置いていったブリキの箱を工務店の倉庫で見つけたこと。中には大金が入っていたため、これを弁済として拝借しようと思いついたこと。
イシドア・フィッシュは実在の人物で、実際にドイツへ帰国し、ドイツで死去している。また、誘拐犯が身代金を暗黒街で洗浄した可能性も高かった。この金が流れ流れてフィッシュの手に渡ったとしても不思議ではない。つまり、最終的にリンドバーグ紙幣をもっていたのがハウプトマンだったのだ。
不運なことに、彼には身代金の流れを検察側に証明する手立てがなかった。証人となるフィッシュが死んだ今となっては。

アリバイもあった。事件の夜は17時までニューヨーク72丁目のアパートで仕事をしており、21時に妻を迎えに行っている。この証言は現場監督によって裏づけられた。すなわち、17時の時点でニューヨークにいたのなら、21時にニュージャージー州のリンドバーグ邸で犯行におよぶのは不可能に近い。

とりわけ犯行に使われた手製の梯子について、彼は最後までこだわった。
「俺は大工だ。大工で食ってきたんだ。あんな素人仕事の梯子なんか絶対につくらない」
これに対して検察側は、梯子の木材とハウプトマンの屋根裏部屋の床の木材が一致したとはねつけた。

案のごとく、審理はハウプトマンに不利に進む。密入国者であり、犯罪歴もあるという事実が彼の心証をめっぽう悪くした。無実の訴えが深く検討されることなく、裁判は1か月あまりで結審を迎える。全米が望み、予想したとおりの死刑判決。
それでも判決に疑念を抱いた人がまったくいなかったわけではない。ハウプトマンが移送されるとき、群集のなかから叫び声があがった。
「あんたが潔白だってこと、あたしは信じてるからね!」
「俺もだ!」
控訴はすべて棄却された。電気椅子による死刑が執行されたのは、翌1936年4月3日。
身代金の残りの3万ドルあまりは、ついに発見されずじまいだった。

真犯人はほかにいる

死刑執行から長い年月が流れた現在も冤罪説は根強い。検察側が提示した証拠・反証のどれもができすぎているのだ。しかもハウプトマンを真犯人とした場合、多くの謎や矛盾点が生まれてしまう。

まず、現場に残された足跡と足のサイズが一致しない。また、複数犯を示唆する足跡が発見されたにもかかわらず、いつの間にか単独犯行にすり替えられてしまった。仲介役のコンドンが電話で聞いた、イタリア語で話す男の正体も明らかにされていない。梯子も一人では使用できないタイプなのに、単独で使用したと結論づけられた。共犯者は「いなかった」ことにされたのだ。

アリバイももみ消された。事件当日にニューヨークで仕事をしていたことを裏づける出勤簿はなぜか紛失。さらに、当初はハウプトマンの主張を裏づける証言をしていた現場監督も公判では前言を翻した。作業時間記録簿はアリバイを否定する方向に改竄される始末である。
なお、証言すれば謝金を支払うという新聞社もあり、実際に買収される人間もあらわれた。このため、当初は被告人に有利な証言をしていた者たちが不利な証言に転じることもめずらしくなかった。大衆の期待する結末になるように、マスメディアが誘導したのである。痛ましい事件も金儲けのネタにしかならず、またそれを許すのが商業主義なのだ。

戸棚の内側に書かれていたコンドンの電話番号は、新聞記者が悪ふざけで書いたものだということが公判後に判明。
弁護人はリンドバーグの熱狂的なファンであり、おまけにアルコール依存症で、おざなりの弁護しかしなかった。

犯人とハウプトマンの筆跡については、本事件を検証していた研究家が80年代に二人の筆跡鑑定家に見てもらったところ、「同一人物ではない」という回答を両者から得ることができた。

有罪の決め手となった梯子の木材については、警察による捏造の可能性が指摘されている。
ハウプトマンの家族はマスコミの追及に耐えられず、家をでて行方をくらませた。屋根裏の床板が切り取られているのを警察が「発見」したのは家族が不在のときだった。警察が細工をして証拠をでっちあげることもできたのだ。
大工を生業とする人間は、材木などいくらでも手に入る立場にある。犯罪に使う梯子をつくるのに、わざわざ自宅の床板から材料を調達するだろうか。

死刑執行から41年がたった1977年、ハウプトマンが獄中で無実を訴える手紙を母親に書いていたことが公表されて反響を呼んだ。この手紙はニュージャージー州トレントン刑務所の所長に託したもので、5000語からなる長文である。40年以上にわたって非公開だった背景には、内容を公開すると検察側に不利になるという所長の判断があったという。

「母さん、俺はリンドバーグ家とはなんの関わりもない。だいたい、なんの罪で裁かれてるのかもわからない。弁護士はいつも酔っぱらってて話を聞いてくれないし、無実の証拠もすべてもみ消された。あの弁護士は検察とグルになって証拠をでっちあげてるんだ。俺を犯人に仕立て上げるために」

ハウプトマン冤罪説はもちろん仮説であり、死刑が執行されたという事実は動かせない。しかし、彼が公正な審理によって裁かれたとはとても思えないのだ。もし裁判が「死刑ありき」という見えざる意思のもとに進行したのだとしたら、それは他者を殺害する目的のもと、その準備行為をしたことにならないだろうか。これは殺人予備罪の成立要件ではないのか。

リンドバーグ家内部犯行説

ハウプトマンが冤罪なら、真犯人はほかにいる。
ここで真っ先に考えられるのが、内部の人間による手引きがあった可能性だ。両親の在宅中に忍び込み、乳児を連れ去るという犯行手口はあまりに大胆不敵であり、内部に協力者がいなくては不可能に近い。
とりわけ、この日は特別だった。一家は平日を妻の実家で過ごし、週末に自宅に帰る生活を送っていたが、当日はジュニアが風邪気味だったため大事をとって自宅にいた。つまり、一家が火曜日の夜に自宅にいたのはこのときがはじめてだった。この予定変更を犯人はどうやって知ったのか。
リンドバーグ邸は豪邸で、部屋の数も多い。どの窓が子ども部屋の窓か、どの時間帯にジュニアが一人で部屋にいるか、おそらく犯人は知っていたのではないか。
当然ながら、使用人全員に疑いの目が向けられる。メイドのヴァイオレット・シャープは警察の厳しい追及に耐えられず、服毒自殺をとげた。

真犯人は妻アンの姉エリザベス・モローだという奇説もある。
エリザベスはリンドバーグとの結婚を望んでいたが、彼が伴侶に選んだのは妹のアンだった。嫉妬心から心を病んだエリザベスは、幸せそうな妹一家を見ていることに耐えられなくなり、ついにはジュニアを手にかけてしまった。
この説では、そもそも誘拐事件は存在しない。誘拐をでっちあげて隠蔽を謀ったのはリンドバーグである。親族のスキャンダルを闇に葬り去るのが目的だったというオチがつく。

リンドバーグ狂言説

一方で、真犯人はリンドバーグその人だという説も唱えられている。
ひとつめは、素顔のリンドバーグには変人との風評があり、悪趣味ないたずらで周囲の人々を困らせて楽しむ嗜好があったこと。そうしたエキセントリックな性向がジュニアを死なせる誘因になったというものだ。この説でも誘拐事件は存在しない。悪ふざけによる過失致死を包み隠すために誘拐を装ったと説明される。

同じくカモフラージュに着目した異説として、リンドバーグが殺意をもってわが子を殺害したとする見方もある。
この場合は妻アンの父ドワイト・モローの遺産配当金目当てが動機となる。ジュニアは年30万ドルの配当金の受取人に指定されており、事件後、実際に配当金はリンドバーグの手に渡ることになった。

自作自演説を補強する状況証拠として、リンドバーグの以下の行動が挙げられる。
捜査のプロである当局の応援を拒否し、怪しげな素人の協力を受け入れたこと。早く犯人が捕まって息子が帰ってきてほしいという親心にはどうみてもそぐわない判断である。
犯人から送られたパジャマを見ただけでジュニアの無事を確信し、身代金の受け渡し場所に自ら出向いたこと。ジュニアがすでに死んでいることも、本物の誘拐犯は存在しないことも知っていたのではないか。
顔の判別もできないほどの腐乱死体を下着だけで息子だと判断したこと。
自身の埋葬については土葬を希望し、火葬には抵抗があったと思われるリンドバーグが、ジュニアの遺体は即座に火葬・散骨したこと。遺体が語ったであろう証拠や手がかりはすべて消滅してしまった。

FBIの統計によれば、米国で発生する10歳未満の児童の殺害事件においては、両親またはいずれかの親が犯人であるケースが多いという。これは米国にかぎらず先進国では共通の傾向と思われるが、こうしたデータも狂言説を後押しする一因になっている。そもそも身代金目的の誘拐に手のかかる乳児を選ぶこと自体が悪手なのだ。誘拐してすぐ殺害するなら話は別だが。

ジュニアを名乗る男性登場

後年、自分がジュニアだと名乗りでたロバート・アルジンジャーなる男性があらわれた。
アルジンジャーの話によれば、育ての親のどちらとも血縁関係がないことはDNA鑑定で立証ずみ。加えて、生涯ほとんど変わらない耳の形もジュニアとよく似ており、養父はリンドバーグ家のメイドで服毒自殺をとげたヴァイオレット・シャープとハウプトマンと親しい間柄だったという。事実をはっきりさせるため、アルジンジャーがDNA鑑定を希望したところ、リンドバーグ家はこれを拒否した。

年齢を重ねて高齢となった近年は、晩年のリンドバーグにますます似てきた感もある。しかし、ジュニアがじつは生存しており、アルジンジャーその人であるならば、森で発見された遺体は誰なのかという新たな謎が生まれてしまう。

死刑冤罪の死角

この後、リンドバーグ夫妻は失意のうちに母国を去ることになる。
ハウプトマンの妻アンナは夫の潔白を訴えつづけ、95歳まで生きた。
「犯人逮捕まで事件は終わらない」とよくいうが、逮捕によってすべてが元通りになるわけではない。ひとつの事件に何人の人生が狂わされるか。本事件の犯行手口を参考に、著名人の子息を標的にした誘拐事件はわが国でも起きている。
副産物といえるのは、リンドバーグ法の成立と『オリエント急行の殺人』だろう。はたしてクリスティ女史は事件をどう読み解いていたのだろうか。

冤罪は国家によるもっとも非情な人権侵害だと筆者は考える。
すべての死刑確定者に誤判の可能性はないと言いきれるだろうか。死刑冤罪の死角で息を潜める真犯人はどれほどいるのだろうか。
こういう問題をもちだすと、「死刑制度を廃止すればよい」と直答されることがあるが、それは返す返すもおかど違いである。

featured image:World Telegram staff photographer, Public domain, via Wikimedia Commons

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