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惨劇の現場「リジー・ボーデンの屋敷」買いませんか?

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マザーグースにこんな唄がある。
リジーボーデンの歌だ。

Lizzie Borden took an axe,
リジー・ボーデン 斧を手に
And gave her mother forty whacks.
ママを40回めった斬り
And when she saw what she had done,
ああ、やっちゃったと気がついて
She gave her father forty-one.
パパに40と1回ふりおろす

歌われているのは子による親殺しの情景だ。不気味で難解な数え唄や子守唄が多いマザーグースのなかでも生々しさが際立つのは、これが実話だからだろうか。

19世紀末、慈善活動に熱心な資産家アンドリュー・ボーデンと妻アビーが斧で惨殺されたあくる日、現場となったボーデン家には野次馬根性の見物人が押し寄せた。だが、この事件が全米を席巻するのはこのあとだ。
容疑者として連行されたのは、なんとボーデン家のお嬢さま。地元の名士の自宅で起きた凄惨な斧殺人、しかも娘による両親殺し。報道合戦は否が応にも過熱する。
ミス・ボーデンの物語は社会現象を巻き起こし、縄跳びの数え唄として巷に広まり、無邪気な子どもたちに歌われるようになる。じつはこの唄、新聞の売り上げを伸ばすために記者が創作したもので、斧をふりおろした回数を盛っているのだが。

アガサ・クリスティの『葬儀を終えて』には、登場人物がこの唄を口ずさむ場面が登場する。ヘヴィメタル・バンド、リジー・ボーデンのバンドの名ももちろん本事件に由来する。親を斬り殺したレディの名は世紀を越えて、小説、音楽、演劇、映画、オペラやバレエに生きつづけることになった。

事件はまだ終わらない。リジー・ボーデンは今もなお、殺人事件現場にマニアを引き寄せているのだ。

目次

狂気の朝

今から131年前、うだるような暑さがつづくマサチューセッツ州フォールリバーの夏。
8月4日午前11時15分、ボーデン家の屋敷で若い女性の甲走った悲鳴があがった。居間のソファで仮眠をとっていたはずの父親が死んでいるのを次女のリジーが見つけたのだ。
アンドリュー・ボーデンは手斧で頭部を11箇所もめった打ちされ、頭蓋骨を砕かれ、鼻をそがれ、左の眼球は真っ二つに両断という、見るも無惨な状態。リジーは階下から、3階の部屋にいるメイドのブリジット・サリヴァンに叫んだ。
「早く来て! お父さまが! 誰かがお父さまを殺した!」
誰かが父を殺した。彼女はそう言った。

すぐに警察と医者、近隣住民が駆けつけた。まもなくアンドリューの後妻アビーも2階の寝室でこと切れているのが発見される。やはり斧で頭部を19回ほど斬りつけられ、頭を割られていた。
そのとき家にいたのは、被害者のボーデン夫妻、リジー、ブリジットだけで、リジーの姉エマは避暑地にでかけていて不在。また父の前妻サラの弟、つまりリジーの叔父にあたるジョン・モースもボーデン家に滞在していたが、親戚を訪問するため8時45分に外出しており、このときは不在だった。

その朝、アンドリューは妻と朝食をとり、9時に家を出て銀行と郵便局に寄り、10時45分に帰宅した。遺体で発見されるわずか30分前のことである。リジーの悲鳴があがった11時15分、メイドのブリジットは3階の自室で休んでいた。アビーに命じられた窓拭きを終えて自室に戻ったのが10時50分。

検視の結果、アビーの死亡時刻は9時から10時半の間、アンドリューの死亡時刻は10時半から11時の間と推定された。
リジーが主張するように、何者かが侵入して夫妻を殺害するには、リジーとブリジットが家を離れている時間が必要になる。死亡推定時刻と殺害の状況から、外部犯行の可能性はないと判断された。
姉エマと叔父ジョンは不在だったため、最初から容疑者には含まれない。ブリジットも「屋外で窓拭きをしていた」というリジーの証言によって容疑者から外された。残ったのはリジー・ボーデンである。彼女は8月11日に逮捕され、まもなく殺人容疑で起訴された。

骨肉の争い

リジー・ボーデンは32歳の日曜学校の教師である。中流階級の上品な未婚女性と犯罪性を結びつけるものは、よそ目にはなにもない。しかし彼女が疑われたのには理由があった。状況証拠がいくつもそろっていたのだ。

  • ボーデン家の財産配分をめぐって両親との確執があった
  • 事件の2日前、薬局で青酸を購入しようとして断られた
  • 事件直前、予定を変更して避暑地から急遽帰宅した
  • 事件の数日後、返り血がついたとみられる青いドレスを燃やしていた
  • 証言が二転三転し、行動にも疑わしいところがあった

ここで、事件のカギとなる家族構成をもう一度整理しよう。
リジーと、9歳違いの姉エマは父の前妻の娘だ。アンドリューがアビーを後妻に迎えたのは、前妻サラが他界して3年後のことだった。アビーにとっては身分違いの結婚であり、ボーデン家の財産目当ての結婚ではないかと思われていたふしがある。

父の再婚後は親子関係が悪化して、遺産相続をめぐるいさかいが起こるようになった。そもそも娘というのは父親の「女」に敏感なはずである。姉妹にとって、アビーは父の愛情をめぐって思惑を戦わせる敵同然の存在だったにちがいない。ボーデン家はサラを亡くし、後妻を迎えたことで、その均衡を大きく崩したのだ。

アンドリューはアビーに邸宅(一説では全財産)を相続させる旨の遺言書を遺していたといわれる。エマとリジーは継母を「ボーデン夫人」とよそよそしく呼び、屋敷は両親の居住区域と娘たちの居住区域にきっちりと分けられ、一緒に食事のテーブルにつくことすらなかった。事件が起きた日は、遺産の配分についてを家族で話し合う予定だったという。叔父であるジョン・モースが訪れていたのも相続に関係してのことだった。

犯人はリジー・ボーデン。それは誰の目にも明らかだったが、リジーは殺人に関しては頑として否定、何者かが忍び込んで両親を殺したと主張した。青酸は毛皮のコートを洗浄するために欲しかった、ドレスはペンキがついたために処分したと譲らなかった。
本来ならエマ同様、リジーも長い休暇をとって避暑地で過ごしていたはずだった。しかしなぜか彼女は休暇を取りやめて自宅に戻っている。そもそも姉妹が避暑地の別荘へ向かったのは、遺産相続に関して激しい口論が起きたためだ。

以上のように、有罪となりうる状況証拠がたくさんあり、限りなくクロに近いリジーだったが、彼女には無罪が言い渡される。決め手となる物的証拠がなかったことが大きな理由ではあるが、それと同時に、まだ発展途上だった当時の司法が彼女に有利に働いたことも見逃せないだろう。

悠々自適の余生

地下室で発見された斧は血が拭き取られていたため、当時の科学鑑定では凶器と特定するに至らなかった。つまり凶器が見つからなかったのである。
また陪審員が全員男性だったこともリジーにとっては幸運だった。名士のお嬢さまが人を殺めたとは思いたくない、状況証拠だけで殺人犯とみなすのは忍びないという心理が働いたことは想像にかたくない。
さらに裁判の直前、斧による別の殺人事件が発生したことも無罪を後押した。悪運の強い女は、いつの時代もいるものだ。

遺産相続問題が持ち上がっていたぐらいだから、アンドリューは高齢だったのだろう。近い将来、父にもしものことがあった場合、遺産は遺言書に従ってアビーの手に渡ってしまう。そう思ったとき、リジーは一世一代の大勝負にでたのではないか。
ボーデン夫妻が同日に死亡したため見落としがちだが、この事件には重要なポイントがある。どちらが先に殺されたかによって、相続人となる配偶者が変わってくるからだ。州法で定められた米国の相続ルールは複雑で、法定相続人の範囲も州によって異なる。ましてや19世紀のマサチューセッツ州の相続ルールなど知りようもないのだが、リジーにとって、先に死ぬのはアビーでなければならなかったことになる。

裁判で無罪が証明されたわけではなく、「疑わしきは罰せず」の原則によって勝ちとった無罪判決。リジーの潔白を信じる者が、はたしてこれまでにいただろうか。冒頭の縄跳び唄が生まれたことこそ、人々の胸のうちを物語っているように思える。リジー・ボーデン事件は、「犯人がわかっているのに迷宮入りした事件」の最たる例といえるだろう。

両親が死亡したことで、リジーとエマは莫大な遺産を相続した。ふたりは新たに大邸宅を購入し、「メイプルクロフト」と名づける。大騒動で近隣住民から排斥されたにもかかわらず、リジーは残りの人生をフォールリバーで悠々自適に過ごし、未婚のまま66歳でこの世を去った。

マサチューセッツ州フォールリバー2番街230番地

惨劇の舞台となったボーデン宅は、その後ミュージアム兼B&Bに改葬され、一般公開されてきた。
殺人が起きた当時の家具や内装がそのまま残されたスイートルームが2部屋、客室は4部屋。そのうち1部屋はアビー・ボーデンが殺害された2階の寝室だ。ソファに横たわるアンドリューの遺体の人形と記念撮影して盛り上がる宿泊客が後を絶たず、ニューイングランド随一の観光名所となっている。事故物件として敬遠される日本とは大違いである。

例にもれず、凄惨な殺人事件現場であるこの家では、高確率でなんらかの心霊現象に遭遇できるらしい。ドアが勝手に開いたり閉まったりする、不気味な声が聞こえる、目を突かれる、地下室に女の幽霊がいるなどの証言が多く寄せられているという。

物件を所有する実業家が引退を決め、この屋敷を売りに出したのは2021年のことだ。「歴史的価値」を反映させたという売値は200万ドル(約2億100万円)。いや、購入希望者の心をくすぐるのは、むしろ「陰惨な歴史的価値」のほうだろう。

なにはともあれ、新たな所有者が1892年8月4日の出来事を心に留めてくれることを願いたい。
この屋敷はレジャースポットになるべきではないからだ。

※画像はイメージです。

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