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サディズムの語源、サド侯爵の倒錯した生涯を深掘り

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相手を虐げ苦しめる行為に興奮する性癖、サディズム。
この傾向を持った人たちがサディスト、通称サドと呼ばれているのは有名ですが、サドの語源となった人物は誰かご存知でしょうか?
今回はサドの語源となった実在の小説家、マルキ・ド・サドの倒錯の極みの生涯をご紹介します。

目次

サドの誕生

サドの本名はドナスィヤン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド。1740年6月2日、フランスの首都パリにて産声を上げます。
父親はサド伯爵ジャン・バティスト・フランソワ・ジョセフ、母親はマリー・エレオノール・ド・マイエ・ド・カルマン。
マリーは宰相リシュリューの係累であり、父方の祖父にあたるギャスパー・フランスワ・ド・サドはフランス最初の侯爵ともいわれています。

伯父のジャック・ド・サドは修道士であり、幼少期には彼から直接キリスト教の手ほどきを受けています。
この叔父の素行がサドの人格形成に多大な影響を与えたのは無視できません。
それというのも現職の修道士でありながら、平気で娼婦を買うような享楽主義者の一面があったのです。
若き日のサドは高貴な家柄の美青年として知られ、大変女性にモテたそうです。

その後サドは軍人を志し七年戦争に出征、騎兵連隊の大佐に昇進し数々の武勲を立てます。
1763年、パリに凱旋を果たしたサドに縁談が持ち上がります。
相手は治安判事の娘、ルネ・ペラジー・コルディエ・ド・ローネー・ド・モントルイユ。二人は結婚し、のちに息子一人と娘二人をもうけます。

ルネと所帯を持ったサドは、ルネの妹・アンヌ、ルネの母親モントルイユ夫人と共にラ・コストの古城に移り住みました。
しかし正妻のルネには殆ど無関心で冷たくあたり、逆にアンヌに激しい劣情を抱いた、と告白しています。
もともとサドがプロポーズしたのはアンヌの方だったともいわれ、ルネをあてがわられたのは不本意だったのかもしれません。
養母との軋轢も深刻だったらしく、サドにとっての家庭は決して居心地よい場所ではありませんでした。

サドが生きた18世紀末フランスの爛れた事情

サドが生きた時代は王政の腐敗によるフランス革命、ロベスピエールの恐怖政治、ならびにナポレオンの台頭と被っています。当時のフランスはオーストリアから嫁いできた王妃マリー・アントワネットの浪費で経済が傾き、民衆は貧困に喘いでいました。

巷にはマリー・アントワネットを傾国の悪女にたとえた諷刺絵や俗悪なポルノ小説が出回り、バスティーユ監獄には多くの政治犯が投獄され、世の中は混迷を極める一方。
そんな時代にサドが何をしていたかというと、買春でした。
サドとルネの結婚半年後、ある事件が起きます。なんと新婚にもかかわらず、サドが娼婦を買いあさり、乱交パーティーを開いたのです。

その事実を知った義父は当然ながら激怒し、当時妊娠中だったルネはショックで流産してしまいました。
サドが主催したパーティーの内容は、当時の公式文書に「神をも恐れぬ忌まわしい乱行」とだけ記録されています。
妻の妊娠中に浮気に走る男性は決して少なくありませんが、ここまで大っぴらにやらかすのは珍しいと言わざる得ません。
実はサドにはルネとお見合い前に交際していた恋人・ロリスがおり、彼女にも娼婦の格好をさせた前科があったのです。
サドの両親が息子の結婚を急いだのは、世に憚る性癖を隠そうとしたからとする説も有力でした。
乱交パーティーの醜聞がもとでサドはヴァンセンヌの牢獄に15日間収監され、義両親との仲も険悪になりました。

サドの評価を決定付けたアルクイユ事件

乱交パーティーの一件で恥をかいたのはサドのみならず、むしろ養母がヒステリックな反応を示します。
しかしサドは度重なる養母の妨害にめげず、隙を見計らっては街に繰り出し、娼婦を買い続けました。
当時サドが関係を持った愛人の中には18世紀フランスを震撼させた希代の毒婦、ラ・ヴォワザンも含まれたというのが驚きですね。

サド28歳の時、決定的な事件が起きます。
1768年4月3日、サドはパリのヴィクトワール広場で一夜を共にする女をさがしていました。
その際不幸にも目を付けられたのが、当時36歳の未亡人ローズ・ケレルでした。
サドはローズを娼婦と思い込み交渉するも、一度は「そんな身持ちの悪い女ではない」と断られます。
これでますます燃えたのか、「どうしても新しい女中がほしい」と説得し、騙し討ちのようにして馬車に乗せてしまいました。
行き先はアルクイユの別荘です。
別荘に着いたサドは怯えるローズを小部屋に軟禁し、「服を脱いで長椅子に横たわれ」と命じます。
ローズが拒めばナイフをチラ付かせ、「言うことを聞かなければ殺して埋める」と脅迫。仕方なく要求をのんだ彼女を、めちゃくちゃに鞭打ち始めました。

この時サドが用いたのは革の結び玉の付いた特殊な鞭でした。
サドは合間合間に休憩を入れ、ローズのみみず腫れに軟膏を擦り込み、鞭打ちを再開します。
「もう帰りたい」とごねるローズを「もうすこしゆっくりしていけ」と諭すサド。
ぐずぐずしていたら殺されかねないと危惧したローズは、シーツを結んだ縄梯子を窓から下ろし逃亡。サドの凶状は村中に知れ渡ってしまいました。

マルセイユ事件をきっかけにバスティーユ監獄へ

サド32歳の時、今度はマルセイユ事件が起きます。
サドはマルセイユの宿屋・十三番館に宿泊し、下男に命じて4人の娼婦を連れて来させました。
その後サドは個別に娼婦を呼び付け、媚薬を飲ませて激しく鞭打ち、肛門での交わりを強制しました。
さらには娼婦自身に自分を鞭打たせ回数を壁に刻む、下男に犯させてそれを眺める、下剤を飲ませて脱糞を促し汚物だらけの尻を愛撫するなど、数々の異常行動に走ります。

この事件が公けになり最も怒り狂ったのは、家と娘の名誉を傷付けられた養母でした。
唯一の理解者であり、これまでサドを庇い続けてきた叔父にさえ「甥は頭が狂ってる」と見放されます。
マルセイユ事件が世論に与える影響を重く見た政府は、毒殺未遂と肛門性交の罪でサドに死刑判決を出します。
その後も監獄に出たり入ったりを繰り返し、居城で開いたサバトにルネを引っ張り込む、手を出した娘の父親にピストルで撃たれるなど数々のスキャンダルを重ねた挙句、1784年44歳の時にバスティーユ牢獄に移されます。

AnonymousUnknown author, Public domain, via Wikimedia Commons

サドの晩年 バスティーユでの生活は?

投獄中のサドは娼婦を買って発散できないぶん、小説の形で妄想を昇華させました。暗い独房の中、彼に許された数少ない娯楽が執筆だった事は想像に難くありません。
こんな自業自得の夫に、気の毒なルネは一途に尽くし続けました。浮気を疑われてもひたすら耐え忍び、脱獄に手を貸してさえいます。
サドがS、ルネ夫人がMだとしたら、ある意味理想の夫婦といえるのかもしれません。

1789年7月4日、バスティーユ監獄の窓から「不当に虐待されている!」と叫んだ奇行が問題視され、今度はシャラントン修道院管轄下の精神病院に移送が決定しました。
精神病院におけるサドは、自ら脚本を書いて劇団を主宰するなどなかなかに充実した日々を過ごし、74歳で生涯に幕を閉じました。
前年にはルネ夫人が他界しており、彼女を追うように亡くなった事実に、屈折しきった絆を感じないでもありません。

欲望に身を捧げた男の終着点

以上がサドの波乱多き生涯でした。
娼婦への惨い仕打ちもさることながら、ルネ夫人の献身を踏み躙る言動を見ていると、マゾヒストに依存するサディストの本質を考えさせられますね。

四十代に突入してから男性機能の衰えを痛感していたサドにとって、自分の妄想が結実した小説の執筆は、最高のマスターベーションだったのかもしれません。

featured image:Charles-Amédée-Philippe van Loo, Public domain, via Wikimedia Commons
※画像はイメージです。

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