大悪人か英雄か?平将門は、なぜ今も祟るのか?

鎌倉幕府を開いた源頼朝、南北朝合一を果たした足利義満、天下人の豊臣秀吉、太平の世の祖となった徳川家康。
いずれも時代が生んだ傑物でありながら、誰一人として日本国の王にとって代わろうとしなかったのはなぜなのか。千代八千代の皇統存続を決定づけた背景には、「新皇」と呼ばれた一人の男の姿が見え隠れする。

10世紀、腐敗した管制に牙をむき、独立国を築きながらも非業の死をとげた平将門。わが国が「日本」になったあと、ただ一人帝に並び立つ王だった可能性がある男。神と仰がれ、死して大怨霊にされた将門の本当の姿はどこにあるのか。

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朝廷に弓引く桓武天皇五世

それは、まだ武士という概念がなかったころのこと。
富士山が噴火したあくる年、長雨がつづき、大地震に揺れた平安京で、陰陽師たちは「近く東と西に大乱あり。世は乱れに乱れるであろう」と予見した。
見立ては的中し、やがて東国で平将門の乱が、瀬戸内海で藤原純友の乱が勃発。世にいう承平天慶(じょうへいてんぎょう)の乱である。

時はまだ天皇親政、朱雀帝の大御代。
将門は、桓武天皇の五代めの子孫にあたる。桓武天皇の曽孫・高望王は「平」姓を授けられて臣籍降下。国司(地方官)として坂東に赴き、一族とともに定住した。その息子・良将(良持とも)の子が相馬小次郎、のちの平将門だ。
坂東とは、足柄峠・碓氷峠以東をさす関東の古称。常陸(茨城)、下総(茨城・千葉)、上総(千葉)、安房(千葉)、下野(栃木)、上野(群馬)、武蔵(東京・埼玉・神奈川)、相模(神奈川)の八つの国を関八州と呼ぶ。

ことの発端は、所領をめぐる一族の私闘にすぎなかった。豪族や領民は、将門の鬼神のごとき強さを目の当たりにする。かねてより国司の圧政に苦しんでいた民衆は、この高貴な血筋の若者に信望を寄せるようになる。
義侠心に厚い将門は民を放っておけず、調停者として彼らの紛争に介入していく。正義の武士(もののふ)として迎えられ、怒涛の勢いで勢力を拡大する将門の前に、藤原玄明(ふじわらのはるあき)という男があらわれる。玄明は強い意思のもとに税を払わず、朝廷の蔵を襲って米を領民に分け与えていた人物で、国府に追われる謀反人だった。

天慶2年(939)11月、将門は玄明をかくまって国府軍と交戦、勢いから国府の印綬を奪ってしまう。国府への攻撃は朝廷への反旗を意味した。
それまでは公的機関への敵対行為を慎重に避けながら、戦を「私戦」の枠内にとどめていた将門であったが、ここに至って「朝敵」となり、将門追討は「公戦」と認定される。この瞬間、平将門という男が歴史に突如として現れる。没年がわかっているのに生年が不明なのは、「逆賊として討伐された」という史実しか中央の記録に残っていないためだろう。

天誅の一矢

反逆者となった将門の前に、ある日、何者かが憑依した巫女があらわれる。
「われは八幡大菩薩の使者なり。将門よ、おまえに帝位を授けよう。このことは菅原道真公の御霊が明かすもの。わが八幡大菩薩は八万の兵をもっておまえを加護するであろう」
このとき、坂東諸国の国司たちは将門を恐れ、みな逃亡したあとだった。中央から派遣された国司たちは地元民を搾取の対象としかみておらず、その生活を保護する使命感はなかった。置き去りにされた民衆は将門を仰いだ。
天慶2年(939)12月、将門は「新皇」を称して関東の独立を宣言する。この宣言に未来はないことも、おそらく見越していたにちがいない。

東国の独立国は、わずか2か月で瓦解した。
天慶3年(940)2月13日、追討軍は将門の本拠地に攻め込み、翌14日に両軍が激突。平貞盛、藤原秀郷(俵藤太)らが率いる官軍4000に対し、将門軍は400だったという。将門は農繁期には兵を村に帰しており、この日は坂東では田起こしの時期にあたっていた。

劣勢ではあったものの、風上に布陣した将門軍は風を味方につけて矢戦を優位に展開する。しかし勝利を確信して陣に戻ろうとしたその瞬間、急に風向きが変わった。たちまち形勢が逆転し、将門軍は大量の矢を射かけられて後退を余儀なくされてしまう。
将門は愛馬を駆って先陣に立ち、自ら剣をふるうが、煙に巻かれた馬が立ちすくんだ。そこに一本の流れ矢が飛んできて、将門の眉間を貫いた。
勝利を目前にしていた将門軍が、なぜいとも簡単に崩壊したのかはいまだに謎であり、眉間に矢が命中したとする記録も事実なのか、あるいは何かの比喩なのかはわからない。

各地に眠る将門の身体

将門の首は京に運ばれ、七条河原にさらされた。記録に残るかぎり、わが国の打ち首獄門第一号はこの人である。
その生首はいつまでも腐らず、かっと目を見開き、夜な夜な叫びつづけたという。
「わが骸(むくろ)を返せ。首をつなぎ、今ひとたび戦せん」
ついには切断された身体を求めて東国へ飛んでいったと伝えられる。

将門の胴体、腕、足、鎧、兜を祀る寺社は各地にある。いうなれば全身を分断されたわけで、これは凶霊を鎮めるための弔い方にほかならない。亡骸をいくつかに切断し、それぞれ異なる場所に分散することで霊威を封じるのである。
人々は将門の怨念をおそれて霊を祀り、あまたの将門伝説が生まていった。現在もまことしやかに語り継がれる将門伝説は、7人の影武者説、調伏伝説、藤原純友との共謀説、菅原道真の生まれ変わり説、さらには江戸の結界と将門ゆかりの寺社の関係性など枚挙にいとまがない。

なかでも有名なのは、東京・千代田区大手町の将門塚と、それにまつわる災厄だ。
けれど、この場所に祀られたのはじつは将門が初めてではない。考古学者・鳥居龍蔵の『上代の東京と其周囲』によると、将門の首塚は古墳の上に建てられた可能性がきわめて高い。鳥居龍蔵は関東大震災でむき出しになった古墳をカメラにおさめており、写真によると前方後円墳にみえる。
古墳があったということは、この地はもともと霊場だったのだ。けれども、数々の凶事は古墳の被葬者ではなく、すべて将門の祟りと
結びつけられている。千年の時を経た今も首塚がビルの谷間に佇んでいることこそ、人々が祟りを信じ、動かしてはならないと思ってきた証だろう。

なぜ将門は今も祟るのか?

平将門は、江戸時代には歌舞伎や浮世絵でもてはやされ、明治になると一転して逆賊視され、昭和の戦後には再び英雄視されるという、時代とともに評価が変わるおもしろい人物だ。
史料が限られていることから、知名度とは裏腹に不明な部分も多い。『将門記』(しょうもんき)の原本はすでになく、内容も中国の故事が盛り込まれていたり、文飾に満ちた記述であったりすることから、史実を伝えているかどうかは疑わしい。

もう長い間、将門伝説は語り継がれてきたわけだが、伝説というのは謎が多ければ多いほど育ちやすいものだ。歴史関連の都市伝説が人気を呼ぶのは、謎や空白を埋めようとしてストーリーを当てはめてでも辻褄を合わせようとする傾向が人間にあるからだろう。首塚にまつわる祟り伝説も、こうした性質から生まれたもののような気がする。

将門は、天皇に弓引いた逆賊としてダークサイドに堕ちてこそ輝くヒーローなのかもしれない。
けれども、とうの本人は今も本当に祟りつづけているのだろうか。彼をいつまでも怨霊たらしめているのは、人々の幻想ではないだろうか。そろそろ「祟る将門」から解放してあげてもいいころと思うのは筆者だけではないだろう。

※画像はイメージです。

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