天下を騒がせた三つの悪事、三好長慶の懐刀として暗躍、大仏の首も焼け落ち、信長の助命も撥ね付けた松永久秀とは。
親が子を食み、子が親を蹴落とす戦国乱世、己の才覚一つで下克上を成し遂げた武将、それが松永久秀です。
織田信長が「人がやれぬことを三つやった男」と言い、思うがままに68年の人生を駆け抜けた久秀とは、乱世の梟雄(残忍で猛々しい人の意味)・松永弾正久秀の人物像を語るとき、決まって引用される逸話があります。
信長が安土城にたまたま久秀と一緒にいたところ、そこへ徳川家康がやって来ました。信長は久秀と家康が初対面と知ると、笑いながら久秀のことを家康にこう言い紹介します。「ここにいる松永弾正は、常人ではとてもできない悪事三つもやった、実に大した男である。まことにもって油断ならぬ老人でござるよ」。
その常人ではできない三つの悪事とは主君の三好長慶への裏切り、第13代将軍足利義輝の暗殺、奈良東大寺大仏殿の焼き討ちです。
そんな天下を騒がす大事件を三つも起こしていた久秀でありますが、久秀からしたら「信長よお前には言われたくない」と言い返したいところでしょうか。
久秀の前半生は謎です。永正7年(1510年)の生まれとされ、出身も四国阿波(現徳島県)、京都西ヶ岡(現西京区)などがあり、はっきりしません。20代前半で室町幕府の摂津(現在の大阪府北部及び兵庫県南東部)国守護代・三好長慶に祐筆(秘書)として登用されて、筆が立ち金勘定が得意だった久秀は、長慶から何かと頼りにされてました。
天文9年(1540年)だったといいますから久秀が数えで31歳のとき、長慶が出した手紙の中に久秀の名前が確認できます。これが資料に見る久秀の名前が登場する初見です。
その後、京都を掌握して畿内随一の実力者となった長慶は、管領(将軍の補佐役)細川晴元や第12代将軍足利義晴、第13代将軍足利義輝を京都から追放し、自分の意のままになる傀儡として細川氏綱を管領に就かせ三好政権を樹立、まさに我が世の春が訪れ、この間、久秀は長慶の懐刀として暗躍していた。
久秀にとっては何よりも自分の目の前で下克上の見本を見せられたことが、その後の人生に大きくプラス材料となります。その後に久秀は京都所司代や貿易港・堺の代官を経て、長慶から大和一国の支配を任されます。
その3年後です。長慶の1人息子の義興が22歳の若さで急死、人々は久秀が義興に毒をもったと噂しましたが真相は闇の中です。長慶は愛息の死がよほどこたえたのか、精神の異常をきたしてしまい、病気も併発、義興の死の翌年に亡くなってしまいます。信長より早く畿内を統一した下克上の先駆けですが、長慶は40代半ばという働き盛りでの死でした。
主君長慶の没すると、久秀は三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、岩成友通)らと力を合わせ、長慶の甥三好義継を擁立して三好家を支えました。永禄8年5月、久秀の息子久通と、三好三人衆が軍勢を率いて室町御所にいた足利義輝を弑逆し、その後、三好三人衆は第11代将軍義澄の孫義栄を担ぎ出し、第14代将軍の座に据え、やがて畿内の主導権をめぐり久秀と三好三人衆が対立します。
そんな三好三人衆と結んだのが、大和国から久秀により追い出されていた筒井順慶で、三好三人衆・筒井連合軍との戦が避けらない状況となった久秀は、連合軍が陣取る奈良東大寺を急襲、東大寺大仏殿を久秀は焼き討ち、大仏殿が全焼、大仏の首も焼け落ちました。
その後、信長が足利義昭を奉じて上洛、三好三人衆を追い払うと久秀は信長に降伏しますが、久秀の暗躍は続き、信長に対しても反逆、その度に信長は久秀を許しますが、久秀の反逆は続き、大和信貴山城に籠り信長に再び謀叛、信貴山城を包囲した信長は久秀に古天明平蜘蛛の茶釜を渡せば許すと伝えましたが、久秀は茶釜に火薬を詰め込み古天明平蜘蛛の茶釜を道連れに壮絶な爆死を遂げました。(諸説あります)
eyecatch credit: 月岡芳年 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
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