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正露丸で有名な軍医「松本良順」は新選組軍医?

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「松本良順」といえば、以前の正露丸のパッケージにトレードマークとして描かれているので、だいたいの方は「ああ、あの人」と思うでしょう。
そしてこの方は新選組の軍医として活躍し、新選組ことを書いた本には必ず登場する人です。
どんな人だったかちょっとご紹介しますね。

目次

松本良順とは?

松本良順は、天保3年(1832年)江戸生まれ、父は佐藤泰然という蘭学医で順天堂の基礎を作った人です。
良順は17歳の時に父の友人で幕府奥医師で蘭学医の松本良甫(りょうほ)の娘と結婚して松本家を継ぎました。
日本の江戸時代の医師は、国家資格なしで自己申告で開業してましたから、当たり外れがあったようですね。

幕末になると幕府に仕えていた旗本なども、格好ばかり偉そうにして無能な人が多かったのです。
代々の奥医師なんかひどいもので、毎日江戸城の広間に座っているだけのぼんくらで、死にたければ診てもらえと言われる存在だったそう。

そういうなかで松本良順は蘭学医の家の出身として、日々勉強に通ったりする向学心溢れる異色の存在でした。
それなのにどこにもいじめはあるもので・・・色々あって漢方医の奥医師のトップに、まったく守備範囲外の漢方の試験を受けろ、合格しなければ松本家の跡継ぎとしても奥医師としても認めない、試験は数か月後に行うという嫌がらせを受けたのです。
このとき良順はいちかばちかの作戦に出て、初歩から学ぶのではなく難しいところを丸暗記して試験に臨み合格したという、なかなかの肝っ玉をみせました。

オランダ医学を学ぶ

その後、長崎に開設された海軍伝習所にオランダからポンぺという医師が来たと聞き、無理してでも学びたいとあの手この手を使って留学、文久元年(1861年)長崎養生所(のちに長崎大学医学部に)の頭取となりました。

それ以前と違い、ポンぺは陸軍大学医学部で教わったノートをもとに基礎科学から教えたということで、日本初のきちんとした医師養成が行われ、良順はしっかりその医学を身につけたのですね。
長崎から帰った良順は奥医師となり、医学所(東京大学医学部の前身)頭取を経て、病弱だった将軍家茂付きの寄合医師となりました。
元治元年(1864年)のことですから、激動の幕末真っただ中でした。

新選組との出会いとその後

で、良順はひょんなことから新選組の近藤勇が訪ねてきたことで親交ができ、京都の新選組の屯所を視察、意外なほどに病人が多いのを診察し、健康に悪いあれこれの改善を指示したら、副長の土方がその通りにさっさと実行したという話は有名です。
良順は残っている写真から見ても、剛毅な感じのする頼りがいがありそうなタイプです(今でも正露丸のロゴになっている)。

21歳の病弱な14代将軍家茂が、大坂城で脚気で死の床に着いたとき、松本松本と慕い、不眠不休で看病した良順がもう限界、下がって休ませてというのを不安がり、側を離れずに自分の布団で一緒に寝てと頼んだという話も泣かせます。
良順は困った人を放っておけないという感じで、戊辰戦争では幕府軍の軍医として会津まで行って負傷者の治療を行ったが、仙台で降伏。

そのために明治後は投獄されたが許されて陸軍の初代軍医総監となり、貴族院議員にもなったということですが、永倉新八に頼まれて近藤勇と土方歳三の慰霊碑を建立した話は、江戸っ子なのに浪花節的な感じです。

幕末には色々な人物が輩出しましたが、なぜか松本良順には会ってみたい気がするんですよね。

eyecatch source:published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association), Public domain, via Wikimedia Commons

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