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明暦の大火の新たな謎

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最近は災害の歴史もけっこうクローズアップされるようになりましたが、江戸時代の初期、江戸の街を襲った明暦の大火の話をご紹介しますね。

この火事は、明暦3年(1657年)1月2日に出火し、2日にわたって江戸城の外堀以内のほぼ全域を焼きつくしました。
江戸城の天守から大名屋敷多数、市街地の大半を焼失し、3万から10万の死者が出たそう。

この火事で将軍家綱の補佐をしていた保科正之が江戸庶民救済を優先した結果、江戸城の天守閣が再建されなかった話は英断と戦乱の世が終わったという平和の象徴として有名です。

そして大火の後、家康の江戸入り後からのごちゃごちゃした街並みを一掃して、都市改造が行われ、隅田川に両国橋や永代橋などが架けられたり、防災のための火除地などが作られたりと、江戸が本格的な都市となる基礎の街づくりがされたのですね。

この火事の原因となったのは、別名の振袖火事という名でも知られるちょっとオカルトチックな出来事といわれています。
発端は、裕福な質屋の17歳の娘が本郷の本妙寺へお墓参りに行ったとき、すれ違った寺小姓に一目惚れしたことから。
娘は恋病で寝込み、寺小姓の来ていたのと同じ模様の振袖を作ってもらったが、むなしく亡くなりました。

この娘の葬儀は本妙寺で行われ、当時の風習にのっとって棺に掛けられた振袖を寺男が転売。
それを手に入れた別の町娘はしばらくして亡くなり、また寺で葬儀が行われてこの振袖が持ち込まれて転売、これが立て続けに3度あったため、さすがに寺でも問題視して、振袖を焼いて供養することに。

そして住職が読経とともに護摩の火中に振袖を投げこんだところ、火のついた振袖が強風にあおられて空に舞い上がり、寺の軒先に落下して火事となり、またたく間に燃え広がって大火事になったそう。

ところが、よく調べると、この火元とされている本妙寺には火事の後も幕府から何のおとがめもなくて、むしろ火事の前よりも大きな寺となったということなんです。

この不思議さは、この寺の隣は老中阿部忠秋の屋敷があり、なんと阿部家は200年以上もの間、大正時代にいたるまで、毎年本妙寺に多額の供養料をおさめていたことと関係があるかもしれません。
老中の屋敷からの失火か放火か不明ですが、とにかく火元とわかるとやばいため、本妙寺が火元ということにして振袖のオカルトチックな話を広めたのでは、というのは、なかなか説得力がありそう。

もうひとつは住民の立ち退きなどの問題を一挙に解決して都市改造をおこなうために、幕府が放火した説もあるということで、火元が1個所ではなく3か所から発生し、ひとつめが収束しようとすると二つ目の火事が起こったという目撃談と、古い密集した地域が全滅したというのがそれを裏付けているよう(ただし、江戸城も天守閣など多大な被害を被っているが)。

それにしても著名な儒学者の林羅山が、この大火で家と書庫が焼失したショックで4日後に74歳で死去したのはなんとも気の毒。また徳川光圀がこの大火のせいで水戸藩あげての「大日本史」の編纂をはやめたというのも忘れてはいけないかも。
江戸時代には他にも大火災や大地震が何度も起こりましたが、明暦の大火、調べると不思議なことが出てきたのでご紹介してみました。

eyecatch source:田代幸春, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由

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