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なぜ菅原道真は怨霊から学問の神様になったのか?

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日本には古くから怨霊と呼ばれる存在があり、皆に恐れられてきました。
日本三大怨霊と呼ばれているものがあり、菅原道真や平将門、崇徳天皇の逸話が残っています。これらの怨霊は神として祀られており参拝する人が多いです。

目次

朝廷の最高職から大宰府に流された

日本三大怨霊の一人、菅原道真は数奇な運命を送った人。もともと中流貴族の家系に生まれおり、幼い頃よりいろいろな才能を発揮し神童と呼ばれていました。試験で上位の成績を修めて任官し、遣唐使の廃止を提案したことで有名です。

菅原道真は朝廷の最高職である右大臣に就任しましたが、彼の出世を快く思わない者もいました。左大臣の藤原時平は彼に無実の罪を着せることに成功し、醍醐天皇によって菅原道真は大宰府に左遷させられます。

そこではまるで囚人のような扱いで幽閉されてしまい、失意の内2年で亡くなってしまいました。藤原時平は権力を握りましたが、それは長く続かずに39歳で亡くなります。その後宮廷内において落雷が発生したり、貴族たちが命を落としていきました。

左遷した醍醐天皇や皇太子も病気になったり、亡くなっていきます。これらの事件は菅原道真の祟りであると都では恐れられるようになったのです。そこで彼に太政大臣などの地位を与えて、彼の怒りを沈めようとしましたが、災いは止まりません。結果的に菅原道真を神としてお祀りし、北野天満宮が建てられました。

怨霊から学問の神様として祀られる

菅原道真は都に落雷をもたらしたので雷神となり天神様と呼ばれます。時代と共に怨霊というイメージは薄れていき、学問に優れていた菅原道真にあやかって、学問の神様としても崇められるようになります。

彼をお祀りしたた天満宮は多く存在しており、受験の神様として有名です。北野天満宮は太宰府天満宮と共に多く存在している天満宮や天神社の総本社になっており、受験シーズンになると多くの若者で賑わっています。北野天満宮にはたくさんの梅の木があり、牛の像を見学することが可能です。

これは一願成就のお牛様と呼ばれており、なでると1つ願いを叶えてくれるそうです。大宰府天満宮も北野天満宮と同じ総本社で、菅原道真のお墓があります。彼は梅が好きで、寂しそうにしていた彼のために梅が京都から飛んできた伝説が残っている飛梅が植えられています。

梅の木は天満宮のシンボルにもなっていて、絵馬などのモチーフに利用されています。北野天満宮は菅原一族が管理するようになり、朝廷も神社を保護していたので繁栄するようになりました。鎌倉時代や室町時代などになると、この神社において歌合わせや連歌の会といった文化的なイベントが多く開催されるようになります。

たくさんの人が学問や芸能などの進展を願って、この神社にお参りすることになりました。時代と共に怨霊から神様へと変化していったことで、彼の無念が少しでも晴れることを願います。

※画像はイメージです。

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