長良川合戦で故郷を追われ浪人となった明智光秀。
下剋上によりにより美濃一国を手に入れた斎藤道三、謀略を駆使して成り上がったことから「まむしの道三」と称され、周辺から畏怖された道三は明智光秀の叔母が道三の正室という説があります。
そうであるならば道三は、光秀にとって義理の叔父という縁戚関係、ただし光秀が城主の息子ではなく城主の家臣の息子だとしたら道三と縁戚関係にあったとは考え難いです。
美濃一国の主
それはさておき、天文21年(1552年)、道三は美濃守護の土岐頼芸(ときよりあき)を追放して、美濃一国の主となり「国取り物語」を完結させます。
その後、美濃国主の座を嫡男の斎藤義龍に譲り渡して、隠居となりますが実権は道三が握り、なかなか実権を手放しませんでした。
義龍はそんな父・道三を疎ましく思い、その影響力排除しようとするのです。
義龍の反抗的態度を察知した道三は、義龍の異母弟の孫四郎か喜平次を当主にするため多数派工作を着手。
義龍は、弘治元年(1555年)11月、2人の異母弟の孫四郎と喜平次を殺害し先手を打ちます。
そして義龍は5000程の軍勢を集め、親子による血の相克劇を優勢に進めます。
対する道三は、義龍が本拠を構える稲葉山城とは、長良川を挟んで対岸に位置する鷺山城(さぎやまじょう)に立て籠ります。
道三のもとに駆けつけた将兵は、義龍方の10分の1の500程でした。
長良川合戦
両軍は長良川を挟んで対陣、弘治2年(1556年)4月20日、義龍軍が圧倒的な兵力差を利して長良川を渡り、道三軍に攻撃をしかけます。
道三軍は善戦したものの圧倒的な兵力差は埋められず、道三は討ち取られてしまいます。
長良川合戦は、開始される前から勝敗の行方が決まっていた戦国史上稀有な合戦となりました。
光秀の父と有力視される明智光綱は、長良川合戦に道三方として参戦していました。
敗戦後、本拠の明智城へ逃げ戻りますが、義龍軍に攻め込まれ、城を枕に自害、光綱は光秀には落ち延びて明智家を再興するように遺命したと伝わります。
そのため、光秀は故郷を追われた浪人、諸国放浪の旅に出ることを余儀なくされました。
これが史実ならば、光秀は明智氏のなかでも、一城の主を務める直系の家に生まれたことを意味しますが、光秀の系図は複数の系統が存在、そのいずれも真偽の判断がつかず、光秀は明智城主の家臣の家に生まれたと推測します。
享禄元年誕生説であれば
享禄元年(1528年)誕生説であれば、光秀が故郷を追われ諸国放浪の旅に出たとき、光秀は29才になっていて、明智城主の家臣という境遇に耐え、もしかしたら寺院において僧侶として、研鑽の日々を過ごしていた可能性もあります
光秀は長良川合戦ののちに明智城が陥落すると、それを人生の転機としてとらえ自分が明智城主の子や甥ではなくとも、明智城陥落により故郷を追われ諸国放浪をしているといえば、自分が美濃源氏の名族である明智氏の直系であるかのように装うことも可能ととらえるでしょう。
長良川合戦で、まむしの道三が討死したことが、明智一族にとって苦境の到来だが、光秀はピンチをチャンスと考えたのではないでしょうか。
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