物部氏は神話の時代から謎めいたところがあり、この話の骨格は近年進歩が著しい遺伝子の研究結果と日本書紀などをベースにしています。ただし、日本書紀などの内容は年月などの設定に無理が感じられるので、一つの物語と考えていただければと考えますが、この物語に流れるスピリットは思いのほか的を得ているように思います。
物部氏
道具や武器などに長じていた物部氏は大和朝廷において、当初、製作を担当していたようです。次第に大伴氏にならんで軍事を担当するようになり、さらに祭祀も担当するようになりました。武士のことを「もののふ」ともいいますが、それは「もののべ」からきているという説もあります。
物部氏は、ニギハヤヒノミコト(饒速日命) を先祖としていると言い伝えられていて、姓(かばね)は連(むらじ)。ちなみに、物部氏と勢力を争った蘇我氏の姓(かばね)は臣(おみ)です。
神話におけるニニギノミコト(瓊瓊杵尊)は、カムヤマトイワレビコ(後の神武天皇)の先祖にあたられます。
カムヤマトイワレビコは日向から東征を開始し、熊野を経て今の奈良県に入り、橿原宮において紀元前660年2月11日に即位され、この日が日本の建国記念日と定められています。紀元前660年と言えば、弥生時代の初期にあたります。
まだ渡来系弥生人の血筋がそれほど拡がってはいなかった時代と言えましょう。カムヤマトイワレビコは奈良県に入るとき、敵対する土着の豪族であったナガスネヒコ(長髄彦)の勢力を滅ぼしたと伝えられています。このとき、長髄彦の妹であるミカシキヤビメ(三炊屋媛)と結婚していた饒速日命は、カムヤマトイワレビコに自分の宝物を見せて自分の祖先を示し、長髄彦を殺してカムヤマトイワレビコに帰順しました。
カムヤマトイワレビコは、第二子または第三子または第四子と伝えられています。兄や子を集めて東征を開始されたということなので、周囲からリーダーシップと能力を認められていたのでしょう。
カムヤマトイワレビコ
日本に天下って大和(大和という地名は饒速日命が命名したとも伝えられています)に勢力を築いたのは饒速日命 の方が早かったようなのに、何故カムヤマトイワレビコに饒速日命は帰順したのでしょうか。
自分がカムヤマトイワレビコに近い一族の出身であり同志的な存在であることを知り、またカムヤマトイワレビコ の能力と人望を見て取って東征の勢いを感じたからでしょうか、あるいは、カムヤマトイワレビコの所有する宝物が、自分が所有する十種神宝よりランクが上であったのでしょうか。このあたりの饒速日命に関する記述は古事記とは少し異なっています。この時代、宝物は自身の身分証明書であったのでしょう。
少し飛び越えた話になりますが、筑紫の各地名と奈良盆地やその周辺の各地名との間に互いによく似た対応関係があることが知られています。魏志倭人伝に記載されている邪馬台国は筑紫にあって邪馬台国は大和王権と何等かの関係があったのではないかと思い、饒速日命は日本に建国したいという目的を有している人々の先遣隊あるいは先遣隊の子孫であったのではないかと考えています。
奈良盆地の人々の状況に関する情報を取得していなければ、いきなり「カムヤマトイワレビコの東征」が企画されることはないでしょう。いずれにしても、話に連続性があり、登場人物には強い建国の意思のようなものが流れているのを感じます。私としては、義理の兄弟にあたる饒速日命に裏切られた長髄彦が可哀そうな気もいたします。
時代が下がって、西暦587年7月に丁未の乱が起き、神社を尊び、仏教の導入に反対して蘇我馬子と戦った物部守屋は、河内国渋川において、弓の名手として奮戦しましたが遂に討たれ、物部氏の宗家は滅びました。生き残った守屋の一族は、諏訪や東北地方に落ちのびました。物部氏一族の生き方には、一本、筋が通っているように感じます。
近年の調査によれば
近年の調査によれば、男系の遺伝子で考えると物部氏は、日本古来の縄文系の遺伝子あるいはチベットやブータン(ブータンの人々は日本人そっくりの顔をしています)から中東にかけての地域の縄文系の遺伝子を有していたようです。
縄文人の遺伝子は、他人を攻撃することを好まないようにする遺伝子とのことですが、盟神探湯の審判官でもあった物部氏の激しい気性とは相容れないようにも思い、不思議な感じを受けます。
一方、千年近くも日本の貴族社会において権力を維持してきた藤原氏は、かって長江流域において日本の弥生時代の稲と同じ遺伝子を有する稲の栽培を行っていたが動乱で中国の東部や北部に移住し海を渡って九州などに上陸して来て我が国の弥生文明の端緒を開いた人々の遺伝子と同じO2系の遺伝子を有していたようです。
なお庶民を含めた現在の日本人は、主として、縄文系遺伝子を有する人々とO2系の遺伝子を有する人々とから構成され、そこにO3系などの他の系統の遺伝子を有する人々が少数含まれているようです。つまり、縄文系遺伝子がほとんどなくO3系の遺伝子が多い朝鮮や中国の人々とは大きく異なっています。
長期にわたって権勢を誇った藤原氏ですが、決して日本国の頂点の地位を得ようとはしなかったことは、大陸の王朝における前王朝を徹底的に葬り去るやり方と比較してみると、大きな違いがあります。
最後に
最後に物部氏の他の側面を示す和歌を一首示します。軍事で名をはせた物部氏の分家筋で、宗家滅亡後、石上を名乗った石上宅嗣の作になる、万葉集に載せられた一首です。「言繁み相問はなくに梅の花雪にしをれてうつろはむかも」の一首です。
「言繁み」は「人の口がうるさいので」の意味、「相問はなくに」は「訪問しないままでいるうちに」の意味、「うつろはむかも」は「散ってしまうかもしれない」の意味で、ジャンルは「恋愛」です。物部氏の一族は、武ばかりではなく文にも優れていました。
※画像はイメージです。
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