米中東部のケンタッキー州ルイヴィルにはオハイオ川が流れる。その川底に、オリンピックの金メダルが眠っているという伝説がある。この町出身の18歳の黒人アマチュアボクサーが1960年のローマ五輪で獲得したものだ。肌の色ゆえに受けてきた理不尽な仕打ちは、きっとこのメダルが終わらせてくれる。彼はそう信じていた。
意気揚々と故郷に凱旋すると、レストランで入店を拒否された。
「おまえさんに出す料理は、うちにはないんだがな。出てってくれ、たとえ金メダリストでもニガーはお断りだ」
若者はくやしさに唇をかみ、メダルを川に投げ捨てた。カシアス・クレイ、のちのモハメド・アリである。
時は流れ、1996年7月19日、アトランタ五輪開会式。
スポットライトが暗闇を照らし、サプライズゲストの姿が浮かび上がると、スタジアムがどよめいた。最後の最後まで秘密にされていた聖火最終点火者は、“ザ・グレーテスト”こと元世界ヘビー級統一王者。大観衆から「アリ!」「アリ!」のコールが沸き起こる。
アリの手は震え、表情も乏しい。おそらくこのとき、歩くことも話すこともままならなかったにちがいない。現役時代に受けたダメージで、ここ10年来パーキンソン病と闘っていたのだ。夜空に聖火が燃えさかると、キング牧師の名演説『わたしには夢がある(I have a dream)』が流れ、ジョン・レノンの『イマジン』がスタジアムに響きわたった。
もっとも人種差別が根強かった南部のアトランタで、ようやく時代がモハメド・アリに追いついた。そう思わせる心憎い演出だ。
そう、彼は時代に早すぎた。
25歳から28歳までがピークといわれるプロアスリートの世界。この絶頂期に王座のタイトルとボクシングライセンスを剥奪され、リングから追放された。なぜ? 反戦を唱え、国家権力に宣戦布告したからだ。
「俺は殺人には手を貸さない。アジア人にこれっぽっちも恨みなんてないぜ。彼らは俺をNワードで呼んだことはないからな。ベトコンを殺せと言うのなら俺を刑務所にぶち込めよ」
米国史上、いや人類史上最高のアスリートが選手生命を賭け、合衆国を敵に回してまで貫いた本気。ザ・グレーテストの知られざる闘いの足跡をたどる。
ボクシングとの出会い
モハメド・アリは1942年1月17日、カシアス・マーセラス・クレイ・ジュニアとして生を享けた。命名は奴隷制撤廃運動に奔走した
政治家カシアス・マーセラス・クレイに由来する。
12歳のとき、父親に買ってもらった宝物の自転車を盗まれて警察署に駆けこんだ。「盗むのは卑怯だ、犯人を見つけだして殴ってやる」と泣きじゃくる少年に、警官のジョー・マーティンは意外なアドバイスをする。
「そうか。なら、ケンカのやり方を覚えるんだな。強くなれ。でないと反対にやられちまうぞ。ボクシングを習ったらどうだ?」
「ボクシング? そしたら強くなれる?」
マーティンは自分がトレーナーをつとめるジムに連れていってくれた。グローブを握るきっかけとなった有名なエピソードだ。黒人だからという理由で受けてきた差別も、強くなればきっと変わると思っていた。
天賦の才はすぐに花開いた。まもなく初戦を勝利で飾り、つづく州大会と全米大会を制覇。ローマ五輪ではライトヘビー級金メダル。
冒頭の「メダルをオハイオ川に投げ捨てた」というアリ伝説は広く流布している。星条旗を背負ってオリンピックを制した自分なら肌の色は問われないだろうと考えて入ったレストランでの出来事だが、「メダルを川に捨てた」という部分はどうやらフィクションらしい。メダルは紛失しただけというのが真実のようだ。
それでも店をたたき出されたアリの怒りは本物だったのだろう。長い闘いの人生は、この時期を起点にはじまった。アリはプロボクサーとして生きて行くことを決意する。あたかも黒い肌がいかに美しいかを世界に証明するかのように。
蝶のように舞い、蜂のように刺す
世はヘビー級戦国時代だった。
モハメド・アリ、ジョー・フレイジャー、ジョージ・フォアマン。ボクシングの神様は、彼らを同時代に送り込むという粋な采配をしてくれた。いずれもチャンピオンベルトを手にしたことのあるレジェンド中のレジェンドたちである。名勝負が生まれないわけがない。
アリはヘビー級に革命をもたらした。大男が巨体をゆすらせ、重い打撃を繰りだして力ずくで相手を倒すファイティングスタイルを根底から変えたのだ。
リングを広く使って旋回する、ヘビー級離れした華麗なフットワーク。想定外の角度から放たれる一瞬のカウンター。速すぎて見えないファントムパンチ。フェイントのアリ・シャッフル。「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と形容されたヒット&アウェイスタイルは世界中の度肝を抜いた。余談になるが、ジークンドーの師祖であり、アクションスターでもあったブルース・リーがアリのビデオで「ガードいらずの蝶の舞」を研究していた話は広く知られる。ダンスをしているようなリーのフットワークも美しい。
今ではあたりまえになっている「KOラウンド予告」のパフォーマンスをはじめたのもアリだった。
自己プロデュースに長け、ショーマンシップに満ちていて、対戦相手をからかったポエムを試合前に発表しては拍手喝采を浴びる。
豊富なボキャブラリーから繰りだされるトラッシュトークは独特な韻も踏んでいたため、のちにアリを「ラップの父」と呼ぶ者も現れた。ヒップホップカルチャーが産声をあげるずっと前の話である。
カシアス・クレイが舞った夜
オリンピックの金メダリストがプロの王者に挑戦する。プロデビュー20戦目で、ようやくそれは実現した。敵はWBA・WBC世界ヘビー級統一王者ソニー・リストン。この男、とにかく威圧感が半端ない。どのくらいコワモテかというと、これくらいである。
「隣にリストンがいたら、俺なんかボーイスカウトに見えるよ」 by マイク・タイソン
アリはけっしてハードパンチャーではない。リストンは史上最強のハードパンチャーとの呼び声が高く、オッズも7対1で圧倒的に優位。日頃からアリのビッグマウスに眉をひそめていた人たちは、「チャンピオンが生意気な若造の鼻をへし折ってくれるだろう」と期待したにちがいない。
一方のアリは報道陣を相手に、エンターテイナーぶりを発揮する。
「……こいつはたまげた。おたくらにはアレが人間に見えるらしい。俺には不細工な熊にしか見えないね。でっかい熊さんを仕留めて動物園に寄付してやるぜ、アハハハハ!」
チャンピオン、スイッチオン。
ところが蓋を開けてみると、試合はワンサイドゲームとなった。打てども打てどもパンチがむなしく空を切る、アリの伝説のディフェンスだ。リズミカルに上体を揺らし、うしろにステップを踏んで、襲いかかるチャンピオンをひらりひらりとかわす。ときおり鋭いジャブを刺す。恐るべき動体視力。完全に相手を見切っている。
7ラウンド開始のゴングが鳴ったとき、もうチャンピオンはコーナーから立ちあがろうとしなかった。6ラウンドTKO。
新チャンピオンが記者席に向かって叫ぶ。
“Eat your words!” (前言を撤回しろ!)
このときアリが放った言葉が “I am the greatest!” 。のちにニックネームとなる「ザ・グレーテスト」はここからきている。
22歳の若者は、プロデビューから3年あまりで無敗の王者に駆けあがった。
ベルトを「でっかい熊さん」から奪取した翌日、彼はさらに世間に衝撃をもたらす。ネーション・オブ・イスラム(ブラックムスリム)に入信したことを明かし、カシアス・マーセラス・クレイ・ジュニアという出生名を捨てたのだ。モハメド・アリの誕生である。
「クレイという姓は、もともと白人の御主人様が俺の先祖に与えたものだ。俺たちはいつまで奴隷の名前を名乗らなきゃならないんだ?」
人種差別撤廃が遅々として進まない、米国社会への挑戦だった。
ベトナム戦争徴兵を拒否
改名後、アリは圧倒的な強さでタイトルの防衛を重ねていく。徴兵カードが届いたのは、まさにその絶頂期だった。
すでに米国はベトナム戦争に本格参戦。国民の戦争支持が5割を超え、ピークを迎えていた時勢である。このときアリは25歳、9試合連続防衛に成功していた。常勝街道に国家が立ちふさがる。
1967年4月28日。
米軍入隊式に出席したアリは、名前を呼ばれても前に出ることを三たび拒否した。「おまえは懲役5年、罰金1万ドルの重罪を犯している」と警告されても信念を曲げなかった。「モハメド・アリ、入隊式で逮捕!」の激震が走る。それでもアリは恐れを知らぬ不遜の言を吐く。
「自分の良心にたずねた。命令を受け入れれば、自分と自分の信仰に忠実ではなくなると判断した。俺は良心的兵役拒否者だ」
ベトナム戦争がいかに不毛だったかを知る現代の人間からすれば、この発言は小気味よく響く。しかし1967年の時点では、徴兵拒否は国家への反逆とみなされた。自国の戦争を公然と非難することは愛国心に欠けるとして冒涜に値したのだ。激怒した政府は世界王座のタイトルとボクシングライセンスを剥奪し、アリをボクシング界から追放する。6月には徴兵を回避した罪で大陪審から禁錮5年、罰金1万ドルの有罪判決が下された。
アリは自らの正義を貫き、毅然とリングを去る。これまでのキャラクターがキャラクターであるだけに、一見ふざけたような反戦の姿勢はスポーツ界や国民からもバッシングを浴び、彼のもとには殺害予告などの脅迫が大量に届くようになった。
黒人初のメジャーリーガー、ジャッキー・ロビンソンは、アリの言動が黒人兵士の士気を下げたと敵対視。メディアも心ない報道をくり返した。
「モハメド・アリはボクシング界の面汚し。金を払って観に行ったあなたは恥を知れ」
「リアルの戦争となると、キーキー泣きわめくチキン野郎」
以降4年にわたり、アリは反戦を訴えつづけ、無罪を勝ちとるために法廷で闘うことになる。稼いだファイトマネーのすべてをつぎ込んで。
法廷闘争は当初こそ国民の支持を得ることはできなかった。しかし戦況が泥沼化し、長期化するにつれ、各地で反戦運動が起こりはじめた。戦争支持率は低下の一途をたどり、アリが自由で勇敢であればあるほど共感の声が広がっていく。孤独な闘いは、いつしか「聖戦」に変わった。人々は、自分たちの英雄があるべき場所に戻るための準備を整える。
アリは1970年10月26日、ジェリー・クオーリー戦にてようやく再起をはたす。翌1971年6月には、連邦最高裁が有罪判決を破棄。このときアリは29歳、国家に勝利した元チャンピオンはスポーツの枠を超えた英雄となっていた。
しかし、4年近くのブランクがアスリートにとって致命的であることに変わりはない。「モハメド・アリは終わった」。誰もがそう思った。アリ神話第2章の幕が上がるのはここからである。
名勝負の立役者、宿敵ジョー・フレイジャー&ジョージ・フォアマン
モハメド・アリにプロキャリア初黒星を与えたのは2歳年下のジョー・フレイジャーだった。
二人が出会った1968年、アリは法廷闘争のさなかにあり、フレイジャーは世界ヘビー級チャンピオン。事情通の話によれば、フレイジャーはアリのライセンス再取得に陰ながら奔走していたという。
両者が初めて拳を交えたのは1971年3月8日、マディソン・スクエア・ガーデン。31戦無敗のアリ、26戦無敗のフレージャーの対戦は、
謳い文句にたがわぬ「世紀の一戦」となった。
試合中、フレイジャーは両腕をだらりと下げたノーガードで笑みを浮かべ、アリを挑発。終盤に入るとアリを何度もぐらつかせ、得意の左フックでダウンを奪って判定勝ち。
そのフレイジャーの無敗記録を29で止め、王座から陥落させたのがジョージ・フォアマンだった。
1973年1月22日、キングストンのナショナル・スタジアムで行われたタイトルマッチで、フォアマンは1ラウンドに三度、2ラウンドにも三度のダウンを奪い、圧勝する。アリに勝ち、ヘビー史上最強と謳われたフレイジャーをサンドバックのようにぶちのめす試合運びは「キングストンの惨劇」として名高い。
ベルトに挑んで敗れたアリは、なんとフレイジャーから王座を奪ったジョージ・フォアマンに照準を定める。32歳になった今、もはや蝶のように舞い、蜂のように刺すことはできなくなっていた。
世界を沸かせた「キンシャサの奇跡」
世紀を越えて語りつがれる名勝負がある。
1974年10月30日に行われた世界ヘビー級タイトルマッチの舞台は、ザイール共和国(現コンゴ民主共和国)の首都キンシャサだった。すでにピークを過ぎた元王者が若き現王者に挑む。スポーツ史に燦然と輝く「キンシャサの奇跡」である。
この試合はアリにとって、奪われたものを取り返しに行く戦いだった。それも自身のルーツであるアフリカへ。いきおい、試合は体制(フォアマン)vs.反体制(アリ)の図式となる。以下はフォアマンの言葉だ。
「俺はこの国(アメリカ合衆国)を愛している。学校さえろくに行かなかった不良少年に学びの場を与えてくれ、生き方を変えるチャンスをくれたんだ。俺はリンドン・ジョンソン大統領の貧民救済策に救われて人生を切り拓いた。国には感謝してるし、愛国心が強いのは当然のことさ。だが、やつにはやつの正義がある。反米を唱え、徴兵を拒否した行為はネガティブに映ったが、やつは本気だった。俺とは立ち位置が違うが、描いたゴールまで走り抜く強さはリスペクトする。あいつは男だね」
フレイジャーとフォアマンは、カムバックしたアリを追い落とすために合衆国が放った刺客だという説がある。真相はどうあれ、チャンプが遠いアフリカの地で国家の面子を背負い、悪役を演じる形になってしまったのは気の毒に思う。
アリの勝利を信じる者はいなかった。
フォアマンは25歳。あのフレイジャーをわずか2ラウンドで粉砕したチャンピオンは、40戦全勝37KOと歴代ヘビー級王者トップのKO率を誇っていた。専門家筋の予想は4対1、イギリスのブックメーカーのオッズは11対5。アリ信奉者がアリを支持したと見積もって、これである。
「モハメド・アリ、初KOをくらって引退か。相手が悪すぎる」
「いや、KOどころか殺されるぞ。フォアマンを15ラウンドよけきるなんて全盛期のアリでも無理だ」
「どのみち最終ラウンドのゴングまで立っていられないさ。チャンピオンは1ラウンドで仕留めにいくよ」
稀代の天才ボクサーのぶざまな最終章。それが世間の予想だった。
純白のガウンをまとったアリがリングに上がると、誰かが叫んだ。
“Ali, Boma ye!” (アーリッ、ボマ・イエ!)
「ボマ・イエ」とは、「あいつをやっちまえ」という意味のリンガラ語。この声援から『アリ・ボンバイエ』という曲が生まれ、のちに日本でも『INOKI BOM-BA-YE』として広く知られるようになる。「ボンバイエ」は「ボマ・イエ」が訛ったものだ。
よく言った、みんなで合唱しろというように観客にアピールするアリ。ザイールの人々は、「大国の国家権力に立ち向かった男」を第三世界のヒーローと位置づけた。実際は富める国の裕福なアスリートであるにもかかわらず。
遅れて真紅のガウンを着たフォアマンが登場すると、今度はブーイングが起こった。同じ黒人でありながら、チャンプにとっては完全たるアウェー戦。
リング中央でレフェリーが注意を与えているあいだ、いつものように罵詈雑言を浴びせて相手を挑発するアリ。それを無言で受けとめながらアリを見据えるチャンピオン。このときのフォアマンのオーラたるや。
「アリを殺すつもりだった」とのちに告白したのは、あながちリップサービスではないだろう。これほどの凄みを放つボクサーを筆者はほかに知らない。
第8ラウンド残り2秒の大逆転
「獣のように 挑戦者はおそいかかる 若い力で」
とチンペイとベーヤンとキンちゃんは歌ったが、この試合は逆だった。
ゴングが鳴ると同時に、若きチャンピオンは挑戦者に襲いかかった。アリはフットワークを駆使して猛攻をかわす。全盛期を思わせる軽やかな動きにスタジアムが沸いたのもつかの間、なぜか彼は早々に得意のフットワークを封印してしまう。
足を使わず、ロープを背負って強打に耐える展開がつづく。フォアマンの地獄のパンチをガードの上から浴びつづけ、アリは傷だらけになった。よそ目には、挑戦者がロープ際に詰められ、懸命に防戦する図に映る。アリ陣営は「ロープから離れろ!」「ダンスを踊れ!」と何度も指示するが、彼は頑なにロープにもたれて戦うのをやめない。
じつは、これがアリの作戦だったのだ。
1ラウンドでグローブを交えた瞬間、彼は作戦を変更した。フォアマンにパンチを出させ、着実に消耗させたところで反撃に転じる。危険な賭けだった。ロープを背にフォアマンを迎え撃つ戦法は自殺行為に等しい。
アリがぶっつけ本番で戦法を変えた理由は、アフリカの強い陽射しにあった。リングのキャンバスの下には、ダウンした際の頭部の衝撃を和らげるためにクッション代わりのラバーが仕込まれている。このラバーが太陽の熱によって柔らかくなっていたのだ。柔らかいリングは重く、フットワークを得意とするボクサーには大きなハンディキャップになる。アリが試合開始早々にフットワークを封印し、ロープを背にするスタイルに切り替えたのは、長いキャリアで培われた嗅覚によるものだった。のちに「ロープ・ア・ドープ(ロープの麻薬)」と呼ばれる作戦である。
頭部に致命的な打撃を受けなかったのも強い陽射しのおかげだった。ロープもまた、熱でテンションがゆるくなっていたのだ。アリは大きく上体をのけぞらせてフォアマンの強打をかわすことができた。
奇跡は起こるものか、起こすものか。
8ラウンド残り16秒、疲労の蓄積したフォアマンがアリの放った右フックでバランスを崩す。この隙にアリは素早くロープ際から脱出。フォアマンが振り向いた瞬間、その顔面に右、左、右、左、右の5連打を浴びせた。無敵のチャンピオンがふわりと宙に身体を泳がせ、リングに崩れ落ちる。ありえないことが起こった瞬間だった。
フォアマンはカウント8で立ち上がるも、レフェリーに10カウントを宣告され、8ラウンド2分58秒でKO負け。モハメド・アリ、じつに7年半ぶりの王座奪還である。
巨星墜つ
その後、アリは10人の挑戦者を退けるが、1978年2月にレオン・スピンクスに敗れて王座陥落。同じ年の9月、スピンクスにリベンジして三度目のタイトルに返り咲く。引退したのは1981年12月11日だった。プロボクシング生涯戦績は61戦56勝(37KO)5敗。
リングを去ったアリに待っていたのは病魔との闘いだった。度重なる激闘で蓄積されたダメージによるパーキンソン病と診断されたのが42歳のとき。手足の震えが止まらず、言葉も不自由になった。それでもアリは病を得た姿を公衆にさらしながら平和活動に身を砕いた。自身が受けてきた非道な仕打ちにもかかわらず。
1990年の湾岸危機ではバグダードまで乗り込み、フセイン大統領にかけあって、米国人の人質解放に成功。
9.11米同時多発テロの追悼コンサートではムスリムとして平和を呼びかけた。
あるインタビューでの言葉が印象に残っている。
「他者に貢献することは、この地球で暮らすために払う家賃みたいなものさ」
2016年6月3日、アリは32年に及ぶ闘病の末、敗血症ショックで永眠した。享年74。
デビュー以来の盟友であるトレーナーは言う。
「たまに夢をみるんだ。27歳のアリがリングで舞う夢を。失った3年7か月のブランクこそ、あいつがもっとも伸びる時期だった」
世界はモハメド・アリの全盛期を知らない。
闘い、闘い、闘った生粋のファイターだった。20世紀という時代とも殴り合った。その姿は高潔で侵し難い神のようにみえる。
戦火の絶えない今の世界を、ザ・グレーテストはどんな思いでながめているだろう。
featured image:Ira Rosenberg, Public domain, via Wikimedia Commons
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