日本史最大の謎?本能寺の変、明智光秀の成功と失敗。

  • 2019-07-15
  • 2019-12-26
  • 戦史
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本能寺の変直前の織田信長を取り巻く状況。

天正10年6月2日に本能寺の変は起こるが、その直前の状況は北陸においては、柴田勝家は、前田利家、佐々成政、佐久間盛政らの軍勢を率いる。

北陸は越中魚津、森長可は越後関山、これらは越後上杉景勝を包囲する軍勢。
滝川一益は信濃、上野の国衆を率いて上野厩橋、河尻秀隆は甲斐府中、羽柴秀吉は中国は備中高松にて毛利輝元と対峙。

信長三男の織田信孝は、丹羽長秀、津田信澄の補佐を受けて四国征伐のため堺、細川藤孝は丹後宮津、筒井順慶は大和郡山、信長次男の織田信雄は伊勢松ヶ島にあり、また同盟国でありながら、信長に従属的な立場となっていた三河、遠江、駿河の徳川家康は安土での信長の饗応を受けた後に堺にて僅かな家臣共に堺にあった。

そんな最中で信長は僅かな供回り、そして織田家の家督を譲られ美濃、尾張を支配下に置く織田信忠も500程の兵と共に京に入っていた。

最大の難敵の武田氏を滅亡させた信長に対して、単独で敵できるのは中国の毛利氏くらいで、四国の長曽我部元親は秀吉の支援を得た三好氏の反撃に苦慮、更に信長三男の信孝の四国征伐軍が迫り、九州は大友氏は既に信長と友好関係にあり、島津氏も信長に近付き友好を結び、西国は毛利氏と長曽我部氏のみ。

関東の雄の北条氏政、氏直父子は信長に屈指、常陸の佐竹義重も信長に屈指、東北の伊達氏、最上氏、蘆名氏は信長に恭順、東国では越後の上杉氏のみが信長に敵対するのみ、まさに信長は天下統一へあと一歩のところにいた。

そんな状況なら、普通の人なら完全に油断もする。

信長も人の子、完全に油断していたのであろう。まさか、毛利征伐軍の司令官の秀吉の援軍要請に、武田征伐も終えて、手のあいていて安土にて家康の饗応の世話役を解任させていた、光秀に命じて毛利征伐軍の援軍の先陣としたのである。

この時、信長は光秀の近江と丹波の所領を召し上げて、代わりに出雲と石見を与えるとして援軍させた。信長の真意は定かてばないが、所領を失って光秀は秀吉の援軍として備中高松へと向かう事となった、光秀の心境も定かではないが、出雲と石見は毛利領で未制服の地、納得できるものではない。

光秀は秀吉の援軍に向かうため、丹波亀山城に向かい援軍の準備をして、運命の日、天正10年6月2日、光秀は秀吉の援軍には向かわず、僅かな供回りと共に京の本能寺にいた信長を襲撃、光秀は見事に信長を討ち、更に信長嫡男で織田家家督を相続したばかりの二条城に籠る信忠も討ち果たして、光秀の謀叛は成功した。

光秀が更に成功を遂げるには、この先が重要である。
信長の性格ややり方がどうであれ、光秀の行いは主殺し、謀叛人である、光秀は自らの行いを正当化する必要があり、世の中に自らの行いが正当な事と認めさせる必要がある。

また主君の仇討ちを掲げ、各地に散らばる織田家家臣の者共が、光秀憎しで反転して攻撃してくるのは明白。光秀は謀叛を正当化しつつ、主君の仇討ちに躍起になる織田家家臣の者共を撃破していかなければならないのである。

口で言うのは簡単であるが、やるのは大変な事である。
だが光秀はやらけばならないのである。

光秀の当面の敵は堺にて四国征伐のため、寄せ集められた織田信孝を総大将とし、補佐役に丹羽長秀、津田信澄、寄騎に和泉岸和田の蜂屋頼隆、伊勢国衆ら13000の軍勢であるが、光秀には勝算があった。

■織田信孝(神戸信孝)像
神戸信孝 [Public domain], via Wikimedia Commons
丹波宮津の細川藤孝、大和郡山の筒井順慶、両将は畿内制圧軍を率いた時の部下であり、藤孝の嫡男忠興には光秀の娘が嫁いでいて、なりより光秀と藤孝は古くからの昵懇の仲であるから、自分に協力してくれるはず。そして四国征伐軍の信孝の補佐役の1人、津田信澄にも光秀の娘が嫁いでいる。

例え摂津伊丹の池田恒興、摂津高槻の高山右近、摂津茨木の中川清秀らが信孝側についても、光秀は自分の軍勢と藤孝、順慶、信澄らの軍勢合わせれば、30000近い軍勢で信孝軍を圧倒できる。

この初戦に勝利できれば、後は毛利や長曽我部、上杉、北条らと盟約すれば柴田勝家や羽柴秀吉、滝川一益らを各個撃破していけばよいと、光秀という戦略を頭に描いていた。

だが実際は光秀の描いた戦略の通りにはならない、頼みの藤孝は嫡男忠興共に丹波宮津城に籠り、光秀のもとに馳せ参じず、信澄は信孝と長秀謀略で殺害され、順慶1度大和郡山城から出陣したようだが、進退をはっきりさせない。

順慶もたつく間に羽柴秀吉が毛利氏と和睦して、仇敵光秀を討つべく中国大返しを成してしまい、信孝を総大将にして山崎の戦いで光秀を敗走させて、信長の仇討ち戦に勝利。

光秀は近江坂本城に戻り再起を計ろうとするが、その途上で小栗栖で落武者狩りにあってしまい、自刃する哀れな最後を遂げる。

光秀は見事に本能寺にて信長を討ったが、信長を討った後の戦略をどう考えていたかのか、はっきりとした戦略を描いてなかったのか、本能寺の変は日本史最大の謎。
得したのは秀吉で、まさか秀吉と共謀でもしていたのか・・・今でも謎である。


Writing by 信水

40代後半の日本史好き、特に戦国史が好きです。

※写真はイメージです。

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