アニメ化された「ゴールデンカムイ」に登場する元新選組の「永倉新八」について調べてみました。
生い立ち
永倉 新八(ながくら しんぱち)は、松前藩江戸定府取次役(150石取)・長倉勘次の次男として、同藩上屋敷(江戸下谷三味線堀、現・東京都台東区小島2丁目)にて生まれました。本当の苗字は「長」の「ながくら」で、元々北海道の藩の家臣の家柄でした。
近藤勇との出会い
剣術好きが昂じ脱藩し、このころ「永倉」姓を名乗って江戸本所亀沢町の百合元昇三の元で剣を学びました。後、市川宇八郎(芳賀宜道)と剣術修行の旅に出て、江戸に戻り、心形刀流剣術伊庭秀業の坪内主馬に見込まれ道場師範代を務め、門下生だった島田魁と知り合います。
さらのその後、近藤勇の天然理心流「試衛館」道場の食客となりました。
明治以後の後半生
戊辰戦争の後、松前藩士(150石取)としての帰参が認められ、明治4年(1871年)に松前藩家老のとりなしで藩医・杉村介庵(松柏)の娘・きねと結婚、婿養子として松前に渡りました。
明治6年(1873年)に家督を相続して杉村治備と改名、その後小樽へ移ります。
警察官僚の招聘にて、明治15年(1882年)から4年に渡り、樺戸集治監(刑務所)の剣術師範を務めて、看守らに剣術を指導しました。
ここを退職後、東京牛込にて自身で剣術道場を開きます。
明治32年(1899年)に妻子が小樽市内で薬局を開業していたため、再度小樽へ転居し、東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)の剣道部を指導しました。
ゴールデンカムイの舞台である時代はこのころでしょうか。永倉が血気盛んだったことを示す、日清戦争時に55歳にして抜刀隊に志願したという逸話があります。
大正4年(1915年)1月5日、小樽にて死去。享年77の維新の時代を生きた剣豪としては稀な大往生でした。
(C) ゴールデンカムイ 野田サトル 集英社/ヤングジャンプコミックス
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