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陸軍中野学校の離島残置諜報員

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陸軍中野学校の素顔と、中野学校が送り出した離島残置諜報員とは?
第二次大戦中の陸軍中野学校と言えば、泣く子も黙る恐いスパイ養成学校であると思われがちである。

実際の教育内容は、スパイとして最も基本的な能力、防諜、偵察、宣伝、謀略、極秘通信、語学、宣撫、などを普通学術として徹底的に叩き込まれ、さらに太平洋戦争突入後は水底潜行、岩盤登攀、密林走破、奇襲攻撃などの実技が追加された。また、その上に基本的な体力を身につけるため剣道、柔道、空手などの特訓が加えられ、その教育期間は1年間だった。

昭和13年に開校し20年8月に閉鎖されるまで、毎年全国の各部隊から推薦されてきた志願者をさらに選抜し、その倍率は戦争末期でもかなりの狭き門だったという。

単に体力精神力が強靭なだけでは諜報活動はできない。その上に訓練だけでは身につけることのできない人格的な適性、即ち適応力、柔軟性、注意力、指導力、人間としての魅力などが求められたのだ。

このためか陸軍中野学校の卒業生や教官たちには、意外とスパイらしからぬユーモアのある人物が多いのが特徴である。また、中野学校では上官が部下を疑うということがなかったと言う。「諜報は誠なり」が中野学校の精神で、一歩間違えば直接死に通じる諜報に携わる者同士の間では、嘘と裏切りは自分の死につながるという考えである。

それまでは普通の師団に居て中野学校に入校した者は、上官が自分を何ら疑うことなく完全に信頼している事を痛切に感じたという。そしてこの先輩や学友たちとなら共に死んでも悔いはない、という独特の強いモチベーションを形成していたのである。

中野学校からは7年間で約2500名が各地へ赴任して行った。前半の3年間はもっぱら大陸方面への潜伏諜報員がほとんどで、大本営の参謀本部からの直接の命令を受け、現地の司令部に出頭後は身分を隠して潜伏。以後は専用の暗号無線機で東京の石神井にある通信所に連絡を取り、戦略的価値のある情報はそこから直通電話で大本営に連絡することになっていた。

昭和19年になり南方戦線の戦況がひっ迫してくると、今度は大陸への潜伏だけではなく南方の島へも離島残置諜報員として派遣されることになった。これは太平洋戦争初期にアメリカ軍が南方の島々に残していった諜報員をそっくりまねたもので、敵に島が占領された後も潜伏を続け、占領後の状況を逐一無電で報告する任務を持っていた。

一班3~4人のチームを組んで島へ派遣されるわけだが、大陸とは違い補給のない島での一番の問題は食糧であった。そこで食糧に関しては乾燥させた味噌や野菜、米など、最小限必要なサバイバル食を5年分携行することになった。一人5年分の食糧や物資となると20トンにもなるので、隠しておく場所の選定も難しかったという。また、アメリカ軍に占領された後も島から日本の数字暗号の無電を打っていたのでは話にならないという事で、英文の暗号帳を作成した。武器らしいものと言えば爆薬以外には100式短機関銃が1丁。

このような装備で昭和19年から、台湾、沖縄各島、硫黄島、徳之島、八丈島、石垣島などに大本営直属の残置諜報員たちが派遣されて行ったのである。

彼らは赴任しても現地の司令官以外には一切身分を明かさず、教員あるいは病気で退役した軍人崩れの公務員などとして昼間はその仕事に勤しみ、夜間は地形の偵察や民間人の避難場所の選定など、司令部から求められる用務を果たした。

そして、いざ敵の侵攻が始まった際には軍と行動を共にすることはなく、あらかじめ決めておいた安全な拠点に身を隠し、本来の任務を開始するのである。諜報員は兵と共に勇敢に戦って死ぬことを許されないのだ。

派遣された島々の内、陸上戦闘が行われたのは硫黄島と沖縄である。

沖縄ではアメリカ軍侵攻前の昭和19年9月に42名の中野学校出身者が残置諜報員として沖縄本島に赴任。当時は沖縄本島よりもむしろ宮古島、波照間島などが先に侵攻されると見られたため、そのうちの多くがこれらの離島に派遣された。

沖縄本島に残った諜報員は軍の指示で15~16歳の少年による護郷隊という義勇軍を組織し、米軍上陸後は後方攪乱戦を展開した。昭和20年6月23日。牛島司令長官が自決し日本軍の組織的な抵抗が終わると御郷隊は解散し、それ以後は潜伏に入ったと思われる。

本島以外の離島へ渡った者たちは、無防備な離島で少年を訓練し義勇隊を組織して周辺の警備に当たらせ、老人や婦女子の避難場所の整備など地道な防衛策を施して行った。これによって沖縄周辺離島への空襲や艦砲射撃による犠牲者はかなり軽減されたという。

ただし、昭和20年の7月にもなると肝心の東京の通信所が爆撃で破壊され離島に派遣された残置諜報員との連絡が途絶えてしまい、本来の任務が不可能になってしまった。

やがて終戦となり、米軍占領下の沖縄各島は日本には帰属せず各島ごとの民政府が出来た。

しかし残置諜報員は大本営からの任務停止命令が来ない限り任務をやめるわけには行かない。また、諜報員であることがアメリカ軍に発覚すれば、そのまま戦犯扱いされかねない状況下である。まさに彼ら残置諜報員は兵が復員して行った後もそのまま残置し数奇な運命をたどった者が多い。

その点、沖縄方面の各島がそれぞれの民政府を立ち上げたことが彼らにとって幸いした。彼らの表向きの役職での島への貢献がどこでも高く評価され、それぞれの民政府内で引き続き役職が与えられた者が多かったのである。

出自や履歴のでっちあげは中野学校の専門である。彼らは本物以上?に完璧なニセの身分証明書を持っていたので、占領下でも米軍に捕らえられた者は一人もいなかったという。

いちばん長かった者では、昭和26年まで八重山民政府の運輸部長を勤め上げ、現地で結婚した妻と子供と共に日本に帰ったN中尉の例がある。
ただしこのような沖縄の離島の残置諜報員の幸運は、ほんの少しのタイミングでどのように変わっていたか分からないものであった。

南方離島への派遣が一年早く本格化していたら、まさにルバング島の小野田少尉のような長く悲惨な残置任務を余儀なくされた諜報員がもっと多く出ていたのは間違いない。ちなみに小野田少尉は同じ中野学校の二股分校を卒業し、フィリピンの第14軍からルバング島に派遣されていたのである。

 

※写真はイメージです。

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コメント一覧 (1件)

  • 八丈島在住です。残置諜報員の拠点跡らしき場所を発見しました。
    山中にあり、周囲には連合軍監視用塹壕、住居跡などです。

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