幕末の賢君「島津斉彬」暗殺説

あの西郷隆盛を見出して教育したと言われる、賢君島津斉彬にも暗殺説がありますのでご紹介しますね。

島津斉彬(なりあきら)は、薩摩藩11代藩主です。
越前福井藩主松平慶永、宇和島藩主伊達宗城(むねなり)、土佐藩主山内豊信(とよしげ)とで幕末の四賢侯と称された人ですが、早死にしたせいもあり、頭を抜いてダントツだったといわれています。
斉彬は、言うまでもなく、幕末の薩摩藩の顔だった小松帯刀や西郷隆盛の才能を見出して取り立てたこと、集成館事業といわれる産業をおこして藩の近代化につとめて藩の富国強兵をまい進したこと、分家の出身の篤姫を養女にして13代家定夫人とし大奥に送り込んで、一橋慶喜を次期将軍にする運動を展開したことでも有名です。

斉彬は10代藩主斉興の長男で、しかも正室(鳥取藩主の娘)との間として生まれ、すんなり藩主になるのに何の問題もないはずだったのです。
(尚、母方から織田信長の血が入っているとウィキにあるのは間違いです)
しかし、斉彬の曽祖父8代藩主重豪(しげひで)が89歳まで元気で長生きしたうえに蘭癖大名といわれた蘭学者(シーボルトと話したほどペラペラだったらしいが、オランダ語の本はバカ高い)で、20数人も生まれた子女を将軍家から大名まで結婚させなければならず(婚礼支度や親戚付き合いにお金かかって大変)、また学問のための施設を建てたりと浪費しまくったのでした。

斉彬は小さい頃から利発だったのでこの曽祖父重豪に可愛がられて影響を受けて育ったのですが、家臣たちも父斉興も、斉彬が藩主になれば、重豪の二の舞でまた藩の借金が増えるとしか考えなかったのですね。
そういうわけで、父斉興は斉彬に藩主の座を譲らず、40歳になるまで藩主になれなかったうえ、父斉興が愛妾お由羅の方に産ませた久光を次期藩主にというお由羅派と斉彬派で、深刻なお家騒動が起こったくらいでした。
これは斉彬派の藩士が重豪の息子で福岡藩主黒田斉溥(有名な蘭癖大名)に助けを求め、斉彬と親しい付き合いがあり、斉彬の有能さを認めていた老中阿部正弘、お世話好きの伊予宇和島藩主伊達宗城、越前福井藩主松平慶永らが動き、嘉永4年(1851年)2月に斉興が隠居して斉彬がやっと藩主に就任したのですね。

そして前述のように、集成館事業でガラス、ガス灯などを製造したり、密貿易や贋金作りで得た資金で、洋式造船、反射炉、溶鉱炉を建設したりして、藩の富国強兵につとめたのでした。
日本の有識者はですね、アヘン戦争で清国がイギリスに負けた情報をすでに得ていて、ペリーの黒船が来る前から準備しないといけないと考えていたのです。
そして井伊直弼が大老に就任、14代将軍が家茂に決定、安政の大獄が開始というとき、斉彬は抗議のために藩兵5000人を率いて上洛することにしたのですが、直前に練兵を観覧中に発病して50歳で急死したのです。

死因はコレラではないかと言われていますが、じつは斉彬の子供たちはほとんどが夭折しているのです。
これは父の側室で久光の母お由羅の方が、久光を藩主にするために呪ったとか毒殺したのが原因とされています。
そして急死した斉彬の病状がコレラっぽくなく、赤痢や腸チフスなどでもなさそうなこと、鹿児島ではその頃コレラの流行が終わった後だったことなどから、毒殺説が濃厚なのも無理はないことではないでしょうか。
斉彬は賢い人だったので、遺書を残して自分の娘たちを弟久光の息子と結婚させる、久光の息子を12代藩主にすることなどを決めていました。
お家騒動を再燃させないためです。

久光は藩主の父という立場になったのですが、西郷隆盛が「ジゴロ(田舎者という意味です)」と呼んだほどの保守派で、斉彬とは較べようがない小者だったので、大久保利通がなんとかなだめすかして明治維新に持って行ったが、「俺はいつ将軍になるんだ」と言ったそうで、「西郷と大久保に騙された」と明治後もちょんまげ姿で鹿児島に引きこもっちゃったことで有名です。
幕末明治維新の頃は、安政の大獄や暗殺事件とか、若くして亡くなった逸材が数えきれないですが、島津斉彬はその一人であることは間違いない、幕末まで生きていればどうなったか、そしていったい誰が暗殺したんだと思いをはせる人も多いはずです。

※画像はイメージです。

eyecatch source:Hannah, Public domain, via Wikimedia Commons

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