洋の東西を問わない新年の節目 その1

年末年始は日本では1年の節目として重要視されます。
しかし、戦争においてそれは洋の東西を問わずに起きていたのです。

今回はその第1弾になります。

1943年1月1日元旦。

前年の11月に逆包囲された東部戦線のドイツ第6軍と第4装甲軍の一部は新年を迎えました。

すでにドイツ軍集団のスターリングラード救出作戦「冬の嵐」はとん挫し、部隊はコーカサスのA軍集団をどう撤退させるかに焦点が移っていました。

■ 突入するソ連兵(1943年)
RIA Novosti archive, image #44732 / Zelma / CC-BY-SA 3.0 [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
廃墟の市街に身を寄せるドイツ軍兵士は、凍死した軍馬の馬肉を溶かしたわずかなスープで暖をしのぎ、オガクズが2割を占める軍用パンで腹を満たしていました。
それも一部の部隊だけで補給が完全に途絶えたところが大半だったのです。

ベルリンは第6軍の敢闘とドン軍集団の戦果を誇張するばかりでしたが、最前線では多くの兵士が苦しんでいたのです。
そしてこの1943年の初日、ドイツ第6軍は公式で餓死者が出たことを記録しました。

実際にはもっと前から出ており、クリスマス前後にはソ連軍は「7秒に1人ドイツ兵は死んでいる」と揶揄していたのです。
とうとうドイツ軍がこの事実を記録として残さざるを得なくなったのが1943年1月1日になってしまいました。

市街に転がる兵士の遺体
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これ以降、ドイツ側の餓死病死はうなぎのぼりに増え続けます。

細々と続けられていた空中からの補給と傷病者脱出も1月21日、最後の空港、グムラク飛行場が陥落したことで絶望的になりました。
ヒトラーは第6軍指揮官パウルスを元帥にさせ、ドイツの歴史上元帥は降伏していないということで彼を奮起させようとしましたが現状はそれを許しませんでした。

1942年9月、スターリングラードを攻撃し始めた時にいたドイツ第6軍は約33万4千名。
1943年1月30日から2月2日にかけて降伏したドイツ将兵は約9万5千。
うちドイツに帰国できたのは6千名弱と言われています。

記念すべき元旦に認めざるを得なかったドイツ第6軍の餓死者。
この事実は約1か月後の第6軍の破滅への節目となってしまったのです。


Writing by gさん

サバゲー、コスプレ、戦史研究にハマってます。

※写真はイメージです。

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