洋の東西を問わない新年の節目 その2

大戦中アメリカ最大の拠点だったフィリピン。
この失陥が確実になったのは皮肉にも1942年の節目でした・・・

1942年1月2日。正月2日目の午後。

マニラ市内に日本軍が突入し、市は無血占領されました。
アメリカが誇るアジア最大の拠点フィリピンの首都が陥落した瞬間でした。

米比軍はバターン半島やコレヒドール要塞に撤退。終わりのない籠城戦に突き進んでいき、文字通りフィリピンが日本の勢力下に入ることになった節目となりました。

米比軍はコレヒドール要塞周辺の部隊が5月6日前後に降伏して組織的な抵抗は終結します。
総司令官マッカーサーは魚雷艇とB-17を乗り継ぎオーストラリアへ脱出。有名な「アイシャルリターン」発言を行います。

■ オーストラリアに退却したマッカーサー
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それから3年。

レイテに上陸した米軍は陸海空で日本軍を圧倒。フィリピンの島々へ侵攻を開始します。

1945年1月9日、米軍ルソン島リンガエン湾へ上陸。ただちにマニラへの進撃を開始しました。
2月3日(節分)にはマニラ市街地戦が始まります。

市街戦は凄惨を極め多くの市民が犠牲になりました。この市街戦には多くの諸説がありますが、大戦中でも屈指の悲惨な戦闘になったことは事実です。
皮肉にもマニラを正月に陥落させ、米軍にとって1942年の節目を見せたのですが3年後の1945年には日本軍がその運命を年初に見せつけられることとなりました。

■ マニラ市街地戦
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その後の日本軍は未開のジャングルに逃れ多くの戦病死者を出しながら終戦を迎え、終戦後わずかに生き残った日本兵は捕虜収容所に送られます。

文字通り、日本軍将兵は最悪の1年を味わうことになったのです。
同じフィリピンを舞台にした1月のお正月を挟んだ日米両国の苦難と苦闘…。

そしてゲリラに身を投じたフィリピン人の人々の悲劇は今も語り継がれますが、このことが1年の計に起こったことと論じている文章も文献も少ないのは非常に残念に感じます。


Writing by gさん

サバゲ、コスプレ、戦史研究にハマってます。

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