ニイハウ島事件・真珠湾攻撃の影に隠れた悲劇(3)

ところで西開地が48時間ひたすら待ち続けた潜水艦の動きはどうであったのか。

真珠湾作戦当時、日本海軍の最精鋭の第1、第2、第3潜水部隊の計19隻の潜水艦がハワイ諸島を包囲するように配置され、真珠湾から出入りする艦船を監視していた。真珠湾攻撃終了後は打ち漏らしたアメリカ空母を発見・追尾したが敵駆逐艦と遭遇したため途中で見失ったとの記録もある。ところが、西開地が待つニイハウ島での搭乗員救助を命じられた艦は無かったのである。
ニイハウ島に最も近い位置に配置されていたのは伊1号であるが、全くそういう記録もない。つまり西開地は幻の救援潜水艦を48時間待ち続けていたことになるのだ。被弾やエンジントラブルに陥ったら自爆が不文律だった日本軍の中では、危険を冒してまで、所在すら不確かな不時着搭乗員の救助など眼中になかったのかもしれない。

まさに西開地は日本軍によって見殺しにされたと言うしかないだろう。

■伊号第一潜水艦
[public domain] Source:The Japanese book “軍艦写真帖” (pictures of warships) a revised edition Published by 海軍協会 (The Navy Association of Japan)
事件の翌日、カウアイ島からの連絡船が着き、妻のウメノは事情聴取のためにカウワイ島ワイルアへ送られた。重症を負ったハウイラもウメノと一緒にワイルアへ送られ治療を受け、幸いな事に比較的早く回復した。

そして、ウメノとハウイラに対する事情聴取によってニイハウ島での悲劇の全容がアメリカ軍に知れることになった。

詳しく事情を調べたアメリカ軍は翌年7月、事件の全容を「ニイハウ島の戦い」として発表した。その内容は、不時着した日本海軍機のパイロットが日系二世と共に現地人を人質に取って籠城、一人を傷つけたのち銃撃戦の末に二人とも死んだ。というものだった。

当時はだまし討ちと言われた真珠湾攻撃の直後の事である。ウメノの供述が公平なものだったとしても、アメリカ国内の世論がそのように公平に見ないことは自然だとも言える。そして多くの日系二世の人たちが過酷な運命をたどることになるのだった。

■太平洋航空博物館に展示されている、 西開地の零戦の残骸。
Binksternet [CC BY-SA 3.0], ウィキメディア・コモンズ経由
一方で、アメリカの発表によってニイハウ島での出来事を知った日本側では、西開地個人としてのニイハウ島でのいきさつには一切触れず、翌1942年10月に真珠湾で戦死した55人の海軍航空隊の兵士に対して全員2階級特進の軍神扱いとした。そして、西開地の郷里では「軍神」西開地重徳の町葬が執り行なわれたのである。ただし、その際にも西開地が救助を待ち続けたニイハウ島の「ニ」の字も出てこない。一切の事は何も知らされないままであった。

だがその2年後には、ニイハウ島での西開地の悲劇のストーリーに尾ひれをつけたような物語が「愛国美談」として発表されるのだ。

題名は「ハワイに生きていた海鷲・在留邦人、祖国愛の協力」作者は山岡荘八氏であった。

ただしこの中にも西開地の名は一切出ず、在留邦人は日本名の「原田」として出てくる。そして「海鷲」こと西開地と、日系二世の「原田」がいかにしてアメリカ人と戦ったかを、ドラマチックに美談として描いている。もちろん海軍省はこの物語について、西開地家には一切何も知らせてはいない。

さて、妻ウメノのその後である。

一週間カウアイ島で事情聴取された彼女は、それからオアフ島のに送られた。ここは日系二世の中でも反米活動者としてブラックリストに載せられた人々や枢軸国であるドイツやイタリアの人々が収容されている、いわば刑務所に近いものだった。事情聴取は取り調べとなり、ウメノはスパイ罪の疑いが濃いと判断された。

ニイハウ島でのウメノの行為は、ただ夫のハラダと西開地を気遣い、夫と共に一週間の間、西開地の身の回りの世話をし、ひたすら西開地の自決を思いとどまらせようとしたこと、それに尽きるのだが、アメリカ軍側から見ると、それは立派な利敵行為なのだった。

そして決定的だったのが、
「日本に行ったことがあるか?」「イエス。」
「今後日本に行きたいと思うか?」「イエス。」
という、日本人の血が流れている者に対する当然すぎる質問と、ウメノの答えであった。

■日本人捕虜収容所の参考写真(オーストラリア カウラ)
See page for author [Public domain], via Wikimedia Commons
ウメノはそこで「国家反逆罪」を言い渡された。
そしてその後3年間オアフ島の収容所に監禁されることになる。

ハラダと西開地の遺骨は、あの日二人が最期を遂げた場所に仮埋葬されたままであったが、1946年になって発掘許可が出て、ハラダの遺骨はようやくウメノの元に帰った。しかし、西開地の遺骨は軍が処理をするとのことで、ウメノには託されず、そのまま行方不明になる。そして15年後、西開地家の遺族の調査の結果、神奈川県庁内の英霊奉安室で「無名戦士」として安置されている事が判明。

出撃以来20年の年月を経てようやく遺族のもとに帰ったのである。


Writing by ヒデ

参考文献
牛島秀彦 著 真珠湾二人だけの戦争
徳岡孝夫 著 真珠湾メモリアル

※写真の一部はイメージを使用しており本編の内容とは関係ない場合があります。

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