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家康の長男「徳川信康」切腹の謎

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あまり知られていない家康の長男の謎についてご紹介しますね。

目次

徳川の顔ぶれ

徳川家康には11男5女という大勢の子供たちがいて、後を継いだのは3男の秀忠です。
長男は信康と言い、家康が駿河の今川義元の人質だった頃に、今川家の親戚の女性と結婚して生まれたのです。
家康が16歳の時なので、ちょっと年の離れた兄弟みたいな親子ですよね。

その後、桶狭間合戦で今川義元が討ち死にしたので、家康も人質から脱却して三河の領地へ帰ったのですが、人質交換して長男信康と長女と正室の築山殿を取り返したものの、正室とは別居状態で離縁したみたいです。
そして家康は尾張の織田信長と同盟したのですが、同盟のあかしとして信康は、同い年の信長の長女徳姫と9歳で結婚することになりました。
元服も舅の信長の一字をもらったわけで、徳姫との間には2女が生まれたのですね。

浜松城の家康

浜松城の家康とは離縁または別居中の築山殿は、信康のいる岡崎城に住んでいたので、今川義元の親戚が姑、嫁は信長の娘という、敵同士の因縁ものすごい嫁姑が同居してたわけです。

ということで、女の子しか生まれないからと、信康と徳姫とが不仲になった頃(とはいっても二人とも10代後半から20代そこそこ)、家康も信長も、ふたりの仲を修復のために岡崎城に来て色々尽力したと言うことなんですが、同居中の姑の築山殿は、なんと息子に側室を勧めて来たから大変です。
この築山殿の仕打ちに徳姫は怒って、父信長に信康の行状について12箇条の問題点を書いた手紙を、使者として信長の元に赴いた徳川家の重臣酒井忠次にもたせたのです。

築山殿は武田勝頼と内通したとか、築山殿が医者と密通しているとかも記されていて、信長は使者の忠次に聞くと、忠次は信康を全くかばわずにすべて事実です、おまわりさんこいつです状態だったので、信長は家康に信康の切腹を要求したということになってます。
家康はやむをえず信康の処刑を決断して、まず築山殿を護送中に湖畔で殺害、その後、二俣城に幽閉されていた信康に切腹を命じました、信康22歳でした。

これは「三河物語」にだけ出ている話だそうで、そのわりに信康をかばわなかった酒井忠次はその後出世しているし、信長に言いつけた徳姫も織田家へ帰った後長生きしたけど徳川家の庇護を受けているため、信長のせいで息子を殺さざるをえなかったとすれば、家康が恨んでいる様子がないですよね。

当時の信長の様子をしらべても

それに当時の信長の様子を調べても、娘婿の切腹命令を出した様子がないし、築山殿を殺せなんて言ってないということなのです。また、築山殿は、家康が今川方を裏切って織田方に付いたため、今川家の命令で両親が自害させられたことを恨んでいたのは確かだそうですが、武田家に内通するほどの外交手腕があったかは疑問だと言うことなんですよね。

そういうわけで、この時期の徳川家は家康のいる浜松城に勤める家臣たちと、信康のいる岡崎城の家臣たちに分裂して対立していたということで、どうも信康を担いで家康を倒して徳川家を乗っ取るクーデターがあり、家康がそれを事前に阻止し信康は責任を取らされた、ということじゃないかという説が有力視されています。

信康の処刑の前後に、岡崎城に勤める重臣たちが次々と懲罰や処刑されたり、逃亡する者が続出していたのが史料でわかるということで、これは他の家臣たちに対しても粛清や懲罰があったということみたいです。
なんだ、武田信玄が息子義信を切腹に追いやったのと同じことかと思うのですが、義信も有能な若者だったというけど、信康も将来有望な武将だったということで、それ以上にもったいない気がするのは、やはり家康が幕府を開いて徳川家が続いたからでしょうかね。

なお、信康の娘たちはそれぞれ大名に政略結婚で嫁いで子孫がいます。
信長と家康の両方の血を受け継ぐ子孫たちですが、歴史に名を遺すような偉人は出なかったみたいです。

featured image:『新編 安城市史1 通史編 原始・古代・中世』 勝蓮寺所蔵, Public domain, via Wikimedia Commons

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