9月は乃木希典・静子夫妻が明治天皇に殉死した時期なります。
世界にも旅順要塞を陥落させた指揮官として知られた彼が、なぜ殉死という死に方を選んだのか・・・。
近代と武士道が混在した時代を振り返りたいと思います。
1912年9月13日、明治天皇の大葬が執り行われました。その最中、乃木希典・静子夫人は殉死して果てます。
乃木将軍と言えば、日露戦争での旅順攻防戦で旅順要塞を陥落させた指揮官として世界的にも知られていた人物です。
旅順要塞は当時の技術と兵器の粋を集めた「永久要塞」として名高く、ロシアも「数年は持ちこたえる」と豪語していた要塞で、それを半年で陥落させた指揮官なので、当然欧米でも名前は知られていました。
その彼が、殉死というおよそ前時代的な死に方を選んだことは当時の欧米で広く報道されました。
しかし戦時中からの彼の言動から考えると、この選択は十分予想できたともいえます。
旅順要塞攻防終了後、乃木は守備隊指揮官ステッセルと会談し対等の立場で面会し記念撮影を行っています。
また、互いに贈り物を贈り合い奮闘をたたえ合っているのです。勝者としてあまりに謙虚で、敗者に対する気遣いは各国から賞賛を得ることになりました。
反面、明治天皇には多くの将兵を死なせたことを悔い、許されるなら自刃してお詫びしたいと涙ながらに訴えたと言われています。
明治天皇は死ぬのは自分が死んでからにしろと乃木を諫め、乃木は後に学習院長となり昭和天皇など多くの皇族を教育することになるのです。
学習院で行われた乃木式教育は昭和天皇はじめ多くの人物にとって人格形成に大きな影響を与えました。
昭和天皇は後に乃木が最も思春期の人格形成に影響を与えたと後述されているくらいです。
そんな彼が、古式に則り割腹しつつ、夫人が懐剣を胸に突き立てたのを見届けた後軍刀を膝に挟んで喉を突いて絶命しました。
近代戦の歴史を変えた立役者が、武士道に則った死を選んだという・・・理解できるような理解できないような事件があったのが9月になります。
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