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織田信長、桶狭間合戦の謎?

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最近ネットで色々検索して調べると、知っているはずのことでも新説がでたり知らないことがわかってびっくり。
今回は織田信長、桶狭間合戦についての考察です。

目次

桶狭間の合戦

歴史ファンならずとも誰もが知っている桶狭間の合戦は、永禄3年(1560年)5月19日に今川義元の2万5千~4万8千という大軍に対し、弱小織田信長軍3千~5千が奇襲攻撃で大将の義元を討ち取った大番狂わせの戦いとして有名です。

この後、26歳の織田信長は尾張の国を統一して美濃の国をゲット、天下統一へと進んだのですが、守護大名から戦国大名としても実力を誇った今川家は無残に没落していったうえに、あまりにあっさりと首を取られた今川義元の名声も地に落ちてしまったのです。

誰もがオチを知っているし、下手をすれば出陣前に信長が「敦盛」を舞って馬で熱田神宮に向かって駆け出したことまで見たような気になっているほどの有名さで、語りつくされた感があるかもしれません。

それがですね、じつは、尾張国知多郡にあったという「桶狭間」が、どこにあったか特定できないということから始まり、信長軍が進んだルートが不明だし、信長軍が正面から攻撃した、いや奇襲攻撃したか、ということもはっきりしていない、また今川義元がなんでそんな大軍を率いて西を目指したのかということも不明なんです。

定説としては

定説として、義元は天下に号令するために京都へ行くつもりだった、そして前哨戦で勝ったので戦勝ムードで昼休憩で酒宴をするくらい油断していた、そこへ信長が奇襲をかけて大将の首をとっちゃったので、大軍が散り散りばらばらになった、義元の天下取りを阻止した信長すごい、さすが信長というものです。

2万5千とも4万5千という大軍なのに、義元がいる本陣がわかるなんて奇跡だけど、これものちに天下統一する信長だけのことある、今川軍の情報に通じていたすごい、いや義元が油断しすぎだったと、信長アゲのあまり、義元バカ扱いされるありさまでした。しかし最近になって研究が進み、義元サゲの状態が改善され、義元は立派な武将で為政者だったと再評価されたのです。

平地で休憩して油断するはずない、武将は本陣を平地でなく山の上に置くはず、「桶狭間山」では、となったけど周辺は特徴のない丘陵地帯ですでに住宅地になっていて発掘が出来ない、江戸時代の絵地図も頼りにならずやっぱり特定は不能みたい。
また義元が京都を目指したというのも、のちに偉くなった信長のおかげで話が大きくなっただけで、信長の父信秀にとられた尾張の那古野城を奪回する程度だったのではという説になったよう。

色々な説が飛び交っているものの

そして信長の奇襲か正面攻撃かは、色々な説が飛び交っているものの、それを読んでいくと、信長がなんで義元の本陣がわかったのかといえば、たまたま出会った軍勢にやみくもに攻撃したらそこが本陣だったのではという、なにそれそんなのありかよ、というものだったんじゃないかという説が一番しっくりくるんですよね。

とはいえ、あの織田信長の生涯では、たしかに正室のはずの斎藤道三の娘濃姫がどうなったかわからないし、本能寺の変の謎も多いです。それらの次に有名と言ってもいい桶狭間合戦が、ほとんど史料もなく解明不能のことが多いというのは、びっくりしましたです。

※画像はイメージです。

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