「海の特攻」と呼ばれる戦艦「大和」と第二水雷戦隊の沖縄出撃ですが、実は現場では万が一でも生還の見込みを期待して様々な対策をしていたのです。
戦艦「大和」の沖縄出撃は連合艦隊主席参謀、神重徳大佐の提案と言われています。
豊田副武連合艦隊司令長官もこれに賛同し、作戦が決定したというのが定説です。
ともあれ沖縄に突入後浅瀬に座礁し、砲台として敵を撃ち、全弾撃ち尽くした後は上陸して陸軍部隊と共に戦うという悲壮な作戦が決定されたわけです。
この決定に対し、有賀大佐の前任で大和艦長だった第2艦隊参謀長、森下信衛少将らが反発。
各地に掛け合って第2艦隊と第2水雷戦隊には当初片道とされていた燃料が満タンに近い状態まで積載されたのです。
これには連合艦隊機関参謀の小林犠作中佐が、司令部に「予定通りの燃料を搭載」と報告したことから公式的には大和らは片道燃料で出撃したことになったのです。
また、大和と軽巡「矢矧」に乗艦していた士官候補生77名は異動、傷病兵も異動となりました。
森下は沖縄に上陸した後の生活費の計上も主計課に依頼しており、決済されているようです。
以上のように体裁は整えたものの、実際には質に赴くことには変わりなく、第2艦隊司令長官の伊藤整一中将は死地に赴くことを受け入れていたようです。
主砲弾1170発、副砲弾1630発、高角砲弾13500発以上、各種機銃弾に至っては150万発以上を満載した大和は昭和20年4月7日午後2時23分、坊ノ岬沖で大爆発と共に生涯を終えます。
この時、伊藤中将、有賀艦長は艦と共に沈みましたが森下は艦内の柱やパイプに身体を縛って艦と共に死のうとする士官や兵士を殴りつけて退艦させたと言われています。
意地でも生きて海軍の決定に抗いたかったのでしょう。
大和の乗員2740名、第2水雷戦隊981名がこの戦闘で犠牲になりました。
特攻という形にこだわった連合艦隊司令部。
特攻でなく、通常作戦という形にこだわった森下ら現場の指揮官たち。
彼らの思惑はともかく、連合艦隊は最後の稼働艦隊と多くの残存燃料を失いました。
残った艦艇は特殊警備艦艇という浮き砲台としてしか利用価値がなくなってしまったのです。
※写真はイメージです。
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