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「日本三大怨霊」とは?その人物像と逸話について

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「日本三大怨霊」とは?その人物像と逸話について
日本とは、八百万の神々を祀る国。その中には、人間にとって「災い」をもたらすような祟り神も含まれています。

そんな祟り神の中でも有名で、昔から恐れられ続けてきた存在をご存じでしょうか。「日本三大怨霊」と呼ばれる彼らは、決して伝説上の存在ではありません。日本の歴史上に、確かに生きていた人々です。

この記事では、「日本三大怨霊」の菅原道真・平将門・崇徳天皇の3人の人物像と、彼らに関わる逸話についてご紹介していきます。

目次

学問の神兼怨霊代表・菅原道真

清涼殿落雷事件
Unknown artistUnknown artist, Public domain, via Wikimedia Commons

福岡の太宰府天満宮や京都の北野天満宮などで祀られ、学問の神として名高い菅原道真は、かつて怨霊と恐れられた人物です。菅原道真は、文官として活躍した平安貴族の一人です。菅原家は代々学問に秀でた家系であり、道真もまた、文人としての才能を有していました。その才能は時の天皇にも認められ、醍醐天皇の時代には右大臣にまで登りつめました。

しかし、栄華の時代は長くは続きません。道真は突如として大宰府に左遷されてしまったのです。その陰には、政敵である藤原氏の策略が働いていたとされています。道真はこの左遷先で、57歳の生涯を閉じることになりました。

そして道真の死後、都は様々な災厄に見舞われます。道真左遷に関わった人々が、次々に命を落としたのです。
都の人々は、これを道真の怨霊の仕業だと考えました。そして、様々な鎮魂の行事が行われるようになったのです。

死して雷神となる

道真の怨霊は、雷神とも同一視されました。そのきっかけは、清涼殿の落雷事件です。
清涼殿とは、天皇が住まう所。また、天皇だけではなく多くの人々が出入りしています。そんな所に雷が落ちたため、多くの人が亡くなりました。その中には、道真の左遷に関わった人も含まれていました。

醍醐天皇自身は、落雷の被害からは逃れることができました。しかしその惨状を目の当たりにしたため、体調を崩してしまいます。そして事件から3か月後、天皇もまた崩御してしまいました。
道真の怨霊と、落雷事件。当時の人々はこの二つを結び付け、道真が雷神となったと考えたのです。

勇猛な武将から怨霊に・平将門

平将門像
Unknown authorUnknown author, Public domain, via Wikimedia Commons

現代になってもなお、祟りを恐れられているのが平将門です。東京に首塚が残っており、撤去しようとする度に祟りが起こるのは有名な話です。
将門は平安時代に生きた武将です。文官であった道真とは違い、こちらはれっきとした武人。しかも、相当に武勇に優れていた人物だとされています。

将門は、現在の千葉や茨木にあたる下総国を領地としていました。一時は都に出たものの、地元に戻って、親族間での領地争いに加わることとなります。こうした争いに打ち勝った将門は、その勢いのまま関東一円を制圧。自らを「親皇」と称し、関東独立を目指しました。これが有名な「平将門の乱」です。

しかし、朝廷がこれを許すはずがありません。将門は反逆者として、反乱を起こしてから2か月程度で打ち取られることとなりました。将門の首は、都の七条河原にさらされました。その首は長い間腐らず、目を閉じなかったといいます。また、首が飛んだという伝説や、夜に歯ぎしりをしたという話もあり、都の人々は、これを将門の怨念として恐れました。

しゃべる首

将門の怨念にまつわる逸話は、首に関わるものがほとんどです。その中でも。一番恐ろしい話が、「さらされた首がしゃべる」というもの。七条河原にさらされた将門の首は、三か月が過ぎても腐ることがありませんでした。それどころか、失った体を求めて夜な夜な話続けていたといいます。「体はどこにあるのか。もう一度首とつながって、戦をしよう」

それを聞いた人は、将門の首に「あなたは俵藤太によってこめかみを射られました」、と歌いました。すると将門の首は高く笑い、目を閉じて、ただの屍となったのです。
人の歌が怨霊を鎮めた逸話の一つと言えるでしょう。

天皇から怨霊へ・崇徳天皇

崇徳上皇が崩御し怨霊になる瞬間
Utagawa Yoshitsuya (same artist with the name Ichieisai Yoshitsuya), Public domain, via Wikimedia Commons

「せおはやみ いはにせかるる たぎがはの……」という和歌で有名な崇徳天皇。彼もまた、三大怨霊の一人です。

崇徳天皇は、鳥羽天皇の長男として生まれ、わずか5歳で天皇の座につきました。しかし、実権を握るのは、父親である鳥羽上皇です。そして天皇の座そのものも、18年余りで近衛天皇に譲ることになりました。
上皇となった崇徳天皇ですが、やはり実権はありません。やがて近衛天皇が崩御し、彼は自身の息子が帝位につくことを望みましたが、かないませんでした。

その後、長い間対立関係にあった父親・鳥羽上皇が崩御します。崇徳天皇は藤原頼長と手を組み挙兵。「保元の乱」を起こします。しかし、反乱は失敗。崇徳天皇は讃岐に流罪となり、罪人としてその一生を終えたのです。

崇徳天皇が亡くなってからしばらくすると、国家を揺るがすような事件が立て続けに起こり、動乱の時代が訪れました。また、彼と対立していた後白河院に関わる人も次々と亡くなり、「崇徳天皇の祟り」が信じられるようになっていきます。祟りを恐れた朝廷は、崇徳天皇の罪人扱いをやめ、名誉を復活させました。しかし、彼の祟りはなかなか終わらなかったと言われています。

「雨月物語」にも登場

江戸時代に上田秋成によって書かれた怪異譚「雨月物語」に、崇徳天皇が登場しています。物語の名は「白峰」。作中では、崇徳天皇の怨霊と僧の西行のやり取りが描かれています。ここで登場する崇徳天皇の姿は恐ろしいものです。顔は赤く、乱れた髪は膝まで伸びて、目は吊り上がり、爪は獣のように長く伸びている。これこそが、「祟り神」に変じた崇徳天皇のであり、後世に残る怨霊そのものの姿をしています。

祟り神になってもなお、西行と和歌を交わす崇徳天皇。その姿は恐ろしくとも物悲しいものです。

まとめ

菅原道真に平将門、崇徳天皇。日本を代表する怨霊をご紹介してきました。
この3人は現代でも信仰を集めており、各地に彼らを祀る神社があります。その神社の祭神がかつて怨霊であったと知らないうちに訪れていた人も多いことでしょう。

そんな人は、この記事を読んだ後、ぜひもう一度神社に参拝してみてください。今までとは違う視点で、お参りをすることができるはずです。

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