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太安万侶と真珠

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元明天皇の命により古事記を編纂し、西暦712年に献上したという太安万侶。
その墓が、昭和54年、奈良市此瀬町の茶畑からに発見され、副葬品として数個の真珠が収められていた。

中国への使節が皇帝に献上していたと伝えられているほどの貴重品であった真珠を、なぜ副葬できたのか?
太安万侶と真珠の不思議な組み合わせ、その経緯を推測していく。

目次

太安万侶

太安万侶(おお の やすまろ)の生誕日は不明で、西暦723年に逝去した。
文武に優れた人物であったといわれ、多神社(おおのじんじゃ)の太安万侶座像から受ける感じは、少し小柄であるが快活できかん気が強くハンサムな人物にみえる。
到達した官位は従四位下で、多氏一族の中では最高位を得たのだ。

奈良県田原本町多のあたりに居住していた豪族、多氏(おおし)の多品治(おお の ほんじ)の子といわれている。
多氏は日本最古の皇別氏族とされる、一族ということである。

元明天皇

元明天皇は西暦661年誕生、西暦721年崩御、在位期間は西暦707年~715年であった。
西暦708年に和同開珎を鋳造。大宝律令を整備し運用を進めた。西暦710年に藤原京から平城京に遷都。
西暦712年に荷役に就く民を気遣う旨の詔を出す。
天武天皇時代から続いていた、古事記の編纂を継続し西暦712年に完成し、西暦721年に崩御。

元明天皇は、女性天皇でありながら、幾つかの難事業を成し遂げておられる。
中でも古事記の編纂は、熱意だけでは成し遂げることができない難事業であったと思う。

太安万侶と古事記

元明天皇の目に留まった太安万侶は、日本建国の伝承を記憶している、稗田阿礼がそらんじる内容の文章化を苦労して進め、西暦712年にまとめ上げて元明天皇に献上した。
天武天皇の時代から継続している難事業の完成によって、元明天皇は肩の荷が下りた感じがしただろう。

内心たいそう喜ばれたのであろうが、中級官位に達しているかどうかという太安万侶に、公的に高い官位を授けたり大きな褒賞を与えたりすることは、問題含みであったのではないか?

そこで元明天皇は、太安万侶をそこそこの官位昇進で待遇するとともに、個人的に所有されていた真珠を内々に太安万侶に手渡されたのではないかと思うのだ。

太安万侶と真珠

太安万侶の埋葬は薄葬を求める時代でもあったであろう。
おそらく親族関係者が密かに真珠をお骨の傍に収納したのではないかと思うのだ。

そして1300年近く経過した日に、日の下に明らかになった。
もちろん真実は不明だが、このような推論もロマンがあってよいのではないか?

featured image:File:Ono-Yasumaro.jpg, Public domain, via Wikimedia Commons

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