「山菱の三代目」を狙撃した男として、今も語り継がれる伝説のヒットマン・鳴海清(なるみきよし)。
今年の7月11日で、ベラミ事件から42年になる。
標的となった田岡一雄組長は一命をとりとめ、運命の引き金を引いた鳴海清は警察の捜査網をかいくぐった。
待っていたのは巨大組織からの逃亡劇。鳴海はどこで命運がつき、誰に息の根を止められたのか。
ナイトクラブ・ベラミの灯はすでに過去のものとなり、真相も真犯人も闇の中に消えてしまった。
「田岡が来ました」
1978年の蒸し暑い夏の夜。京都三条大橋のほとりにある高級クラブ・ベラミに潜入中の鳴海から一報が入った。
大日本正義団二代目会長・吉田芳幸は10分待つよう指示し、幹部2名を応援に向かわせた。ところが間の悪いことに、途中で車のタイヤがパンクするアクシデントにみまわれる。
彼らが30分遅れて現場に到着すると、ちょうど店内から鳴海が飛び出してきたところだった。
「どないした!殺ったんか!」
「とったよ。手応えはあった」
38口径の弾丸は標的の首を貫通。目撃者の証言によると、店内にパン、パンという音が突然響いたあと、客の一人が腹をおさえ、もう一人が肩をおさえてその場にくずおれた。
別の客が首をおさえているのに気づいたのはそのあとだった。田岡組長は首筋をおさえながら声を絞りだす。
「…俺はええから、向こうの人を早く手当てせえ!」
搬送先の病院で、三代目は奇跡的に一命をとりとめた。
「えらい奴っちゃなあ。しかしなあ、自分が助かる気でいるから失敗するんや。もっと近くへ寄るべきやった」
テレビのニュースで顚末を知った鳴海は、その場で泣きくずれたという。
目的は敬愛する初代の敵討ち
日本最大の暴力団・山口組のトップを襲撃し、殺害寸前に至らしめるという前代未聞の事態。
目的は報復だった。直接的な仇ではない田岡組長を標的にしたのは、彼らなりに思うところがあったのだろうと推測するしかない。
ベラミ事件の2年前、大日本正義団初代会長・吉田芳弘が山口組系佐々木組の組員に大阪の路上で射殺される事件がおきた。
賭場トラブルに端を発する松田組と山口組の抗争、いわゆる大阪戦争だ。
松田組系の大日本正義団は、亡き初代の実弟で武闘派の吉田芳幸が跡目を継ぎ、復讐を誓う。この二代目がベラミ事件の首謀者だった。
「このままでは終わらせない。仇は敵の頂点。命などくれてやる」
組員は初代の遺骨を懐中にしのばせた。100人に満たない組織が、1万人を超える大組織に牙をむいた。
「田岡、まだおまえは己の非に気づかないのか」
情報収集力は警察やマスコミをしのぐといわれる山口組。
鳴海は指名手配され、警察に追われる身となるも、なかなか足がつかない。それどころか、逃亡中に新聞社に挑戦状を送りつけるという豪胆な行動にでた。
その文書には、田岡組長は日本一にふさわしくない非のある人物であることや、己の力を過信すれば滅びるだろうといった警告が綴られていた。
こうした挑発的な文言が山口組構成員の神経を逆なでしたことは想像に難くない。報復合戦は熾烈をきわめていく。
肝心の鳴海清は、警察、マスコミ、山口組による三つどもえの大追跡のなか、9月に六甲山中の谷で発見された。
ヒットマンの最期と大阪戦争の終焉
鳴海を見つけたのはハイカーだった。
ガムテープで巻かれた身元不明の死体は暑さで腐乱し、虫がわいていた。顔は白骨化して指紋採取も不可能。
身体には複数の刺し傷があり、前歯は折られ、手足の爪もはがされていた。生前に壮絶な暴行を受けたことがうかがえる。
発見から何日もたって、ようやく科学捜査で背中の天女の刺青が浮かびあがり、鳴海本人と特定された。身につけていた御守りには、初代会長の遺灰と子供の写真が入っていたという。
ベラミから逃走したあとの足取りを追っていくと、同じ松田組系列の忠成会にかくまわれていたことが判明。
鳴海が遺体で発見されたという事実は、警察の威信を地におとしめた。
兵庫県警は、山口組の報復のなかで鳴海をかくまうことに危機感を覚えた忠成会が、厄介者を持て余したあげくに殺害したとみて数名を殺害容疑で逮捕。しかし、殺人罪については裁判で無罪が確定し、真犯人は不明のまま時効が成立している。
一説では、松田組は水面下で山口組との手打ちの道を模索していたといわれる。そんななかで傘下団体が引き起こしたのがベラミ事件だったのかもしれない。
事件以降は思うように賭場が開けず、資金源を奪われた関係者もいただろう。彼らが鳴海に恨みを募らせても不思議ではない状況だった。
ひとたび引き金を引けば、姿の見えぬ敵も生まれる。それを見越しての行為だったのか、あるいはまったく見えていなかったのかは今となっては知るよしもない。
大阪戦争の抗争終結と結末
大阪戦争は山口組の抗争終結宣言により終わりを迎える。
ベラミ事件の首謀者・吉田芳幸がその後どうなったかというと、山口組の影響力がおよばないと判断された札幌刑務所に収監された。ところが収監先が札幌という情報はまたたく間に相手の知るところとなり、山口組系の組員が札幌で次々と事件を起こしては刺客として同刑務所に送り込まれてきた。その数は30名にのぼったといわれる。
吉田芳幸は生き残った。
出所後は裏社会から足を洗い、洗礼を受けてクリスチャンになり、今はプロテスタント教会の牧師として伝道活動を続けている。
すでに時効を迎えているため、鳴海清殺害事件の真相は闇の中。逃亡中の鳴海に何が起きたのか、誰にどんな理由で殺されたのかは、おそらく今後も明らかになることはないだろう。
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