大山巌といえば、西郷隆盛の従弟で日清日露戦争でも陸軍元帥としてがんばり、陸軍大臣なども務めた人ですよね。
この大山巌夫人は、あの岩倉使節団がアメリカとヨーロッパに視察旅行へ行ったとき、津田梅子らとアメリカ留学した山川捨松なんですが、あんまりすごい人なのでご紹介しますね。
山川捨松は会津藩の国家老山川家の娘として生まれ、あの会津戦争では会津若松城に籠城しました。
当時8歳だった捨松は、他の女性たちと一緒に傷病兵の手当てや炊き出しなどを手伝い、バンバン撃ち込まれてくる大砲の弾、焼玉式焼夷弾に濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐという「焼玉押さえ」という作業で大けがを負い、長兄嫁は亡くなるという経験もしたそうです。
会津戦争後は、伝手を頼って函館のフランス人家庭に預けられたということ。
そして北海道開拓使の募集で11歳の明治4年に10年間の留学のためアメリカへ、このとき兄の山川健次郎も留学し、後に日本初の物理学者、東大教授となっています。
尚、もうひとりの兄は陸軍少将山川浩で、山川家ははっきり言って優秀です。
捨松はさきという名だったのですが、10年もの留学のために母が捨てて待つと改名させたという話で、アメリカではステイマツと呼ばれることに。
捨松はベーコン牧師家に寄宿してアメリカの生活に順応しただけでなく、しっかりと勉強して名門のヴァッサー女子大でも人気者となり学生会長に選ばれ、学年3位の成績で卒業、卒業時の英国の対日外交政策についてのスピーチが地元新聞に掲載されるなど注目の的だったということです。
捨松は帰国を延長して、大学卒業後にコネチカット看護婦養成学校に1年近く通って上級看護婦の免許を取得しました。
当時アメリカ赤十字社が設立されたばかりであり、会津戦争での経験もありと、官費留学生として明治時代の日本に帰国後、出来ることをしっかりと身に付けたのですね。
こうして22歳で帰国した捨松を待っていたのは、適齢期を過ぎた女性といういかにも明治的な見方でした。
当時は16歳くらいで結婚する時代でしたからね、女子教育や看護教育なども視野に入れて学んで帰ってきた捨松は活躍の場がなくがっかりしたなんてものじゃなかったよう。
そこで大山巌40歳の登場です。
大山は妻を亡くしたばかりで、鹿鳴館時代の幕開けとともに外国の外交官たちとも交流できる夫人を探していたということで、英語とフランス語が出来るアメリカ帰りの捨松はうってつけ、西洋かぶれと言われた大山は捨松に会って一目ぼれしたそう。
しかし、ここで問題が。
大山巌は薩摩藩出身、会津藩出身の山川家では仇敵との縁談などと断ってしまったそう。
実際、大山巌はすぐに負傷して退いたが、あの会津戦争を砲撃した隊の一員だったのですからね。
でもこのとき、山川家が「賊軍の家なので」というと、西郷隆盛の身内だからやっぱり大山(実際は仲人に立った吉井友実)も「いやいや、うちも賊軍でごわす」というやりとりは、かなり笑えます。
そういうわけで、本人次第ということになり、実際にお見合いした捨松と巌は、日本語ではなまりが強くて通じず、なんと英語で会話して意思疎通を図ったところ、意気投合したということなんですね。
そしてわずか数カ月で結婚、結婚披露宴は鹿鳴館で行われました。
鹿鳴館時代というのは、表面だけ欧米化した真似事のダンスとか社交とかといわれますが、アメリカで教育を受けた捨松のひとり舞台だったみたい。
英語フランス語ドイツ語を話せた捨松は、大山夫人として活躍の場を得、ダンスは上手なうえに、日本初のチャリティーバザー「鹿鳴館慈善会」を開いて莫大な収益を上げて日本初の看護学校設立に貢献したり、日清日露戦争でも包帯作りや看護婦として活動したり、日本の立場や苦しい財政事情などをアメリカの新聞に投稿、ヴァッサー大卒の日本軍司令官夫人は、アメリカで好意的に受け止められて世論を親日に導くことに役だったなど、ものすごい力を発揮しました。
もちろん留学時代からの親友津田梅子の英語塾(のちの津田塾大学)設立のときも、全面的にバックアップして、その後も理事として運営に関与したということです。
捨松さん、写真で見るとすらりとドレスが似合ってすごい知的な美人でいらっしゃいますが、ユーモアのセンスもあり、夫を巌と呼び、おしどり夫婦として有名だったそう。
明治時代にこんな素敵な女性がいたなんて、ちょっと胸がときめいたくらいうれしくなってしまいましたわ。
※画像はイメージです。
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