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独ソ戦の開始から80年、第二次世界大戦「バルバロッサ」作戦とは?

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今年2021年6月22日で、独ソ戦の開始から80年を迎えます。このナチス・ドイツ側からの対ソ連侵攻作戦が「バルバロッサ」作戦でした。この戦いを振り返ってみました。

バルバロッサ作戦は、1941年6月22日に開始されたナチス・ドイツによるソビエト連邦への奇襲攻撃作戦のコードネームです。このコードネームは、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世のあだ名である「Barbarossa」(赤ひげ)に由来しています。本作戦には合計300万人のドイツおよび枢軸国の兵員が動員され、それまでの歴史上で最大規模の作戦でした。ソ連赤軍はこの侵攻に対して何の対策もしておらず、一方的に奇襲攻撃を被ることとなりました。

バルバロッサ作戦イメージ

National Museum of the U.S. Navy, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由

2個装甲集団が配備されて方面軍中で最強の戦力を保有するドイツ軍中央軍集団は、ミンスク、スモレンスクなどにおいてソ連の大軍を包囲・撃破してモスクワ目指しました。この中でヒトラーは、ドイツ軍南方軍集団のウクライナ攻撃への支援のために、中央軍集団から第二装甲集団を南方へ進撃させてキエフ防衛の赤軍を背後から包囲しょうと目論みました。この動きはウーマニ包囲戦などで限定的に成功したものの、ソ連赤軍主力に苦戦を強いられ、ドイツ南方軍集団にキエフでのソ連赤軍主力への包囲を行う機会を与えたのですが、同時にモスクワ攻撃の時間に後れを生じさせました。

ただ、ドイツ陸軍総司令部が考えていたモスクワ直進作戦を行った場合でも、補給が追いつかずに結果的には目標到達ができなかったと考えられることや、ソ連の大都市や資源が点在していた南方での進撃がもっと困難になったことが予想されることから、南方への転進は妥当な判断ではないかとも考えられています。10月中旬にドイツ軍南方軍集団はキエフを占領、キエフはこのときの防衛戦闘によって、後にソ連政府から英雄都市の称号を与えらました。

祖国防衛のための「大祖国戦争」であると宣言したソ連軍の抵抗は、ドイツ側の予想よりも苛烈を極めて激しく、ベラルーシ、ブレストの国境要塞などで激戦が展開されました。ドイツ軍の侵攻初日には、要塞は数時間で占領できる予想でしたが、実際には、ソ連軍守備隊は一か月間を戦い続けました。こうして第二次世界大戦中で最も多くの犠牲者を発生させる独ソ戦は開始されたのでした。

eyecatch source:National Museum of the U.S. Navy, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由

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