戦前までの日本の陸軍はドイツの前はフランス式をお手本に、海軍はイギリスをお手本にしていたんですが、これのルーツとも思われる出来事をみつけました。
明治維新の頃の日本
明治維新の頃、尊王攘夷だ、佐幕だと争っていましたよね。
これを見ていると薩摩や長州、幕府側という構図になりますが、じつはペリーが来てから条約を結んで開国しちゃったので、横浜には各国の公使館があって列強の外交官が日本はどうなるか情報収集していたんですね。
アメリカは開国の要求は通ったものの、国内で南北戦争が起こって日本のことなど構っていられなくなったわけで、イギリスとフランス、ちょっと離れてドイツの公使が活躍していたんです。
なかでもイギリスは、アーネスト・サトウ(日本人じゃない、スウェーデン系のイギリス人)という、文久2年に来日し半年かそこらで日本語ペラペラになった若い通訳が有能で有能で。
日本語がわかるもんだから自分で色々と情報収集し、イギリス議会ってどうなってるんだとか教えたり、こうすればという英国策論とう論文を発表したりして、西郷隆盛から木戸孝允、井上馨や伊藤博文までと友達付き合いしちゃうくらいの人でした。
とにかくイギリス公使としても、はやくから長州と薩摩がリーダーシップとることを見通してたんですね。
その一方で
一方、フランス公使はレオン・ロッシュという人でしたが、イギリス公使のハリー・パークスと、お互いに猛烈にライバル意識を持っていたそうです。
で、ロッシュは幕府側に入れ込んじゃったんですね。
そしてフランスは幕府に乞われてフランス陸軍の教官を呼んで訓練させることになったんです。
このことが「英国外交官の見た幕末維新」に、「ある日,パークスは突然,私(二等書記官のミットフォード)の部屋に旋風のようにやってきたが、いつもの興奮したときの癖で、彼の明るい赤い髪の毛は根元から逆立っていた。「ロッシュのやつめが、私になんて言ったと思う?将軍の軍隊の訓練のためにフランス本国から陸軍教官団を呼ぶつもりだというんだ。構うことはない。絶対に彼に対抗してみせる。こちらは海軍教官団を呼ぼう」とあるんですね。
目に見えるようです
尚、フランス陸軍はあまりに様式美にこだわるために明治初期にドイツ式に変更されたのですが、海軍はスマートなイギリス式となり、日本海海戦も勝利したし、あの脚気論争で活躍した高木兼寛も、イギリス外交官兼医官だったウィリアム・ウィリスの教え子としてイギリスに留学した医師でありました。
どこの国でも陸軍と海軍はライバル意識が強いものですが、日本の陸軍と海軍の成り立ちを考えると、ライバル外交官の意識を受け継いでいたような気がしないでもないですね。
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