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大坂夏の陣 外伝~やりすぎ伊達政宗!味方の神保相茂隊全滅!

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世の中には、絶対に暴いてはならない闇がある。人もまた、できることなら知られたくない過去や秘密をもっている。
あまたの武勇伝とともに語り継がれる戦国武将も、一皮むけば、しょせん人の子。暴露するのがはばかられる黒歴史は当然のようにある。

さかのぼること407年、大人の事情により闇に葬られてしまった、ある戦国スターの大犯罪があった。
今回は、それを晒すことにする。

目次

10年遅れてきた男

戦国時代、もう10年早く生まれていれば天下をとれたといわれる男が奥州にいた。ご存知のとおり、その名は独眼竜政宗。伊達家の17代目にして猿の調教名人である。
政宗にまつわるぶっとびエピソードは多く、話題性には事欠かない戦国武将の一人だろう。組織のリーダーとしての力量を評価するなら、なんといってもその行動力を抜きにしては語れない。

ところで、この行動力というやつ。いかにも強みや美質のように扱われがちだが、じつはなかなかのくせものなのだ。
行動力がまったくないのも困りものだが、あれば万事OKというわけでもないからだ。なまじ行動力があったばかりに身を滅ぼした人間は現実にいるし、行動力のあるバカほど周囲のはた迷惑になりやすい。
功名心にはやる戦場で、やらかしてしまったのは政宗も同じだった。命拾いできたのは、ひとえに出自のおかげといえるだろう。

時は慶長20年(1615)。
豊臣家最後の戦いとして、あまりに有名な大坂夏の陣。
15年前の関ヶ原の戦いでは東軍が勝利した。徳川家康は幕府を開き、その2年後に将軍職を3男秀忠に譲る。つまり、家康は天下にこう意思表示したわけだ。「将軍職は世襲です。豊臣家、きみたちの出る幕はないからね!」。
家康に仕える一大名として生き残る選択肢は、秀頼にはなかったのか。わかっているのは、戦いを避けることができなかったということだけだ。結果として、徳川方と豊臣方は二度にわたって戦火を交えることになる。

大阪夏の陣
■大阪夏の陣
ニューヨーク公共図書館, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由

独眼竜、豊臣方の真田幸村にコケにされる

まずは慶長19年(1614)の大坂冬の陣。
この戦では豊臣方の真田信繁(幸村)の活躍もあり、最終的に両軍に和議が成立。ところが、この和議が豊臣方にとってはジョーカーだった。なぜなら家康の忠臣・本多正信の策により、難攻不落と呼ばれた大坂城の堀が埋められてしまったからだ。
この時、外堀埋め立ての任にあたったのが伊達隊。この時点で、寵愛を受けた秀吉を裏切り、ちゃっかり徳川方についている政宗さん。

そして迎えた第二ラウンド、夏の陣。
伊達隊は真田信繁(幸村)の強襲を受けて後退を余儀なくされる。徳川方先鋒大将の水野勝成は、真田隊への攻撃を政宗に繰り返し指示するが、政宗はことごとく拒否。おかげで信繁はゆうゆうと大坂城に引き返し、徳川軍を笑う。

「関東勢百万と候えど、漢たるは一人も無きに見えにし候」
(関東武者が百万人集まったところで、漢は一人もいないだろうよ)

しかし堀が埋められてしまったことが、やはり豊臣方にとって大きな痛手となる。三の丸、二の丸の堀が埋められてしまっては、さすがの大坂城も平城(ひらじろ)と同じ。おそらく豊臣方は城外に打って出るしかなかっただろう。
こうなれば決着も早い。つまり夏の陣では、徳川方にそれほどのダメージはなかったはずなのだ。

伊達の味方討ち

ここで不可解な史実がある。徳川方だったにもかかわらず、隊長をはじめ、騎馬兵32名、雑兵293名全員が討死した隊があるのだ。
その名は神保相茂(じんぼう すけしげ)隊。徳川幕府の正史『徳川実紀』によると、神保隊は5月7日、明石隊との激戦において討ち死にしたことになっている。

しかし真相はちがうのだ。神保隊全滅の本当の理由は、なんと味方の軍勢による後方からの一斉射撃。さて、誰が撃ったのか。答えは島津家の『薩藩旧記』の記録から。
「伊達殿は、今度味方討ち申され候こと。諸大名衆笑いものにて比興(卑怯)との由、御取沙汰の由に候」
「伊達殿」、つまり犯人は政宗である。お互いに徳川方として出陣していた伊達隊と神保隊。しかし「伊達殿」が神保隊を同士討ちして笑いものになったというのだ。

味方部隊への後方支援ではなく、文字どおり後方射撃。この「伊達の味方討ち」は、当時から確かな話として諸将に広く伝わっていたという。約300名の味方を背後から銃撃し、殲滅させたのは前代未聞の出来事だった。

伊達家の兵法に敵味方の区別はないらしい

当然ながら、神保相茂の遺臣たちは猛抗議。しかし政宗の弁解は斜め上をいくものだった。
「確かに味方を撃ったのは事実! なれど、神保隊は総崩れになっていたではないか! わが隊が巻き込まれるのを防ぐためにやむなく処分した、それがなぜ悪いのか。このような時、伊達の兵法に敵味方の区別はございません!」

確かに、敗走してくる味方を助け、自軍に引き入れるのは混乱と危険を招く。政宗の言い分にも一理ある。しかし、それが通用するのは神保隊総崩れが事実であればの話。周辺に布陣していた味方軍勢の証言では、神保隊は休息していただけであり、敵に追いかけられていたという事実はなし。誰だよ、しゃあしゃあとウソをついてるのは。

結局、60万石の大々名である伊達家をいたずらに刺激するのはよろしくないという理由から、幕府は政宗の所業を追及せずに不問としたのである。運も実力のうちということか。7千石の小大名・神保相茂、無念なり。

DQNの極み、ここにあり

伊達政宗が休息中の神保隊を虐殺した真の理由については諸説ある。

  1. 敵と見誤った誤射説
    途中で誤射に気づいたものの、幕府からの追及を恐れ、証拠隠滅のために神保隊を皆殺しにした。
  2. 神保隊の活躍に対する伊達隊の嫉妬説
    神保隊の奮戦を間近で見て、やっかんだ伊達隊の誰かが鉄砲を撃ちかけ、勢い大虐殺につながった。
  3. 手柄をあげるための強硬手段説
    6日の道明寺の戦いで後藤基次隊を撃破するため、神保隊を巻き添えにした。

けれど真相に限りなく近いのは、単に神保隊が邪魔だったという理由らしいのだ。自分たちが手柄をとろうと意気込んでいる時に、運悪く味方の隊が行く手をふさいでいたことになる。

「ええい、目ざわりな。殺ってしまえ!撃てー!」
「いや、さすがに味方はまずいですって!」
「問答無用!撃てー!」

家臣たちは、おそらく色を失ったにちがいない。行動力うんぬんというよりも、「なんでその選択?」という疑問が先にたつ。発想そのものが、凡人には思いつかないレベルである。これを豪胆ととるか、短絡的ととるかは人それぞれだろう。

トップの必須条件を考える

良くも悪くも、戦国の気風をバリバリに伝える「伊達の味方討ち」。
ここで、やはり考えずにはいられないことがある。伊達政宗は本当に優れた武将だったのか。10年早く生まれていれば天下をとれる器だったのか。真実は、正直なところわからない。しかしこの逸話からわかるのは、何をしでかすかわからない、予測不能な一面があったということだ。

たとえ智臣や名軍師がそろっていようと、合議制でないかぎり、組織の運命はリーダーしだい。トップが間違った決断を下せば、家臣は従わなければならない。智臣や名軍師だからこそ、よけいにつらい。彼らには行く末がみえるからだ。
そう考えると、リーダーの必須条件は、機を読み、変化に対応できる頭のよさになるだろうか。少なくとも行動力は最重要事項ではないように思える。

※画像はイメージです。

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