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連合艦隊司令長官遭難!重要書類紛失!戦争中の帝国海軍で起きた海軍乙事件

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1944年(昭和19年)3月31日に連合艦隊司令長官である古賀峰一大将が飛行艇で移動中に遭難します。
またこの時に重要書類の紛失も起きました。
戦時中の日本海軍で起きた前代未聞の事件である海軍乙事件を紹介します。

目次

古賀連合艦隊司令長官

1943年(昭和18年)4月、ブーゲンビル島の上空で太平洋戦争開戦前から連合艦隊司令長官を務めていた山本五十六大将が米軍機の襲撃を受けて戦死します。
山本に代わり連合艦隊司令長官となったのは、横須賀鎮守府長官の古賀峰一大将でした。

古賀は海軍航空隊による空からの攻勢をする「い号作戦」を指揮するものの、大きな戦果は得られず母艦航空隊を含めた航空戦力を多く失った。
一方でマーシャル諸島での艦隊決戦を計画しましたが、燃料不足により艦隊を動かす事が出来ずマーシャル諸島は陥落
古賀が指揮した時期は米軍が反撃を本格化させ、日本の劣勢が確定した時でした。

古賀長官遭難する

1944年(昭和19年)3月、空襲を受けたトラック島から退避していた連合艦隊はパラオやリンガに新たな泊地を定めていた。
古賀の連合艦隊司令部はパラオに置かれていた。
3月末にパラオも空襲を受けた事もあり、パラオへも米軍の侵攻が近いと連合艦隊司令部は判断した。
古賀の連合艦隊司令部はミンダナオ島(フィリピン南部)のダバオへ移動する事となった。

3月31日に連合艦隊司令部の古賀長官をはじめ参謀達は2機の飛行艇でダバオへ向かいます。
しかし、道中の悪天候で古賀が乗った飛行艇は行方不明になってしまいます。
それだけでは終わりません。
残るもう1機はフィリピンのセブ島に不時着し、福留繁参謀長をはじめ参謀達がゲリラに捕まってしまいます。
現地の陸軍部隊によって福留達は解放されたものの、今後の戦略について書かれた「Z作戦」計画など重要書類をゲリラに奪われてしまいます。
連合艦隊司令長官の遭難と、重要書類の紛失と言う2つの事件が起きたのが海軍乙事件です。

事件のその後

古賀が乗っていた飛行艇は見つかりませんでした。
古賀は元帥に列せられたものの、戦死ではなく殉職として扱われ、国葬ではなく海軍葬で弔われました。
一方、福留は重要書類がゲリラに奪われた事について否定し続けた事もあり、処分はされませんでした。
事件後は第二航空艦隊や第十方面艦隊の司令長官と言う要職に任命され、シンガポールで終戦を迎えます。

奪われた重要書類はゲリラから米軍に渡り、情報分析の部署にまで届きます。
米軍がこの重要書類から得た情報を活用で来たかは定かではありません。
しかし、敵の手に機密情報が流出したのは事実です。
日本海軍はこの不祥事を曖昧にしたまま、新しい連合艦隊司令長官に豊田副武大将を就任させマリアナとレイテの戦いに臨む事になるのです。

※画像はイメージです。

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