ヒトラー語録でも有名な「パリは燃えているか」ですが、実際に燃えませんでした。
そこにはいろんな人のパリをめぐるドラマがあったためです。
パリは1940年6月、ナチスドイツによって無血占領されました。以後4年にわたり占領されます。そして1944年8月、ノルマンディに上陸した連合軍がパリに迫ります。
ヒトラーはパリを死守、あるいは守れないなら焼き払うようにパリ防衛司令官コルティッツ大将に命じていました。が、このコルティッツはそのことごとくを実行しなかったのです。これは諸説ありますが、したくてもできなかった。する気がなかったなどなど歴史の謎です。
パリ防衛司令官のこの態度がパリ解放のドラマを生む土壌になったことは確かです。
パリでは8月15日以降ゼネストが始まり、19日にはフランス国内軍との戦闘が始まりました。しかしコルティッツは彼らをせん滅せず(できず)、自由フランス軍のド・ゴールは連合軍最高司令部にパリ侵攻を進言し承認されます。自由フランス軍はパリを目指して侵攻を開始しますが、ドイツ軍の抵抗だけでなく住民の歓迎にも「妨害」されてしまいます。
後に追求した、アメリカ第4歩兵師団も同じくフランス人の激しい歓迎に侵攻を妨害されています。
皮肉にもこの稼がれた時間でコルティッツはどう抵抗するかでなく「誰に降伏するか?」を検討する時間を与えられたのです。彼は正規軍に降伏することを判断しました。つまり、レジスタンスであるフランス国内軍でなく連合軍に降伏することを決めたわけです。
パリ防衛司令官がこの体たらくなのでベルリンのヒトラーは苛立ち「Brennt Paris?(パリは燃えているか?)」とヨードルに詰め寄ったと言われています。
ヒトラーのやきもきにも関わらず、コルティッツは司令部だったホテルムーリスを訪れた自由フランス軍に降伏することができました。
彼は戦後皮肉を込めて「パリの救世主」と呼ばれました。
一方、ド・ゴールはまだドイツの狙撃兵が残るシャンゼリゼ通りを堂々と行進し後の大統領への道を歩むことになります。パリをとりまいた1週間のドラマが戦後の歴史を形作ったともいえます。
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