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「ハーメルンの笛吹き男」に隠された事件と中世ドイツの闇

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時をこえて語り継がれる伝承には史実が隠れていることがある。
支配者側の編んだ正史が表舞台の歴史なら、メインストリームから外れたところにひっそりと伝わる裏の歴史があっていい。

民間伝承もそのひとつではないだろうか。いつの世も戦乱・災害・疫病に右往左往するしかなかった庶民の思いがこめられて、昔話は成立し、形を変えつつ、脈々と紡がれてきたのではないだろうか。
ストーリー以上のものが裏にひそんでいるからこそ。
いつまでも記憶にとどめるべきだと考えられてきたからこそ。
人がもつ語りの力の大きさをあらためて思う。

1284年6月26日、ドイツのハーメルンで130人の子どもが消えた。グリム兄弟の伝説集でもひときわ不気味な光を放つ「ハーメルンの笛吹き男」のベースとなった集団失踪事件である。この年の4月、東の果ての日本では、鎌倉幕府執権が若くして身まかった。モンゴル帝国という巨大な外敵に強腰で立ち向かい、日本征服の野望を打ち砕いた北条時宗先生だ。

児童向けの童話というのは、オリジナル版の残虐性やエロティシズムを排除して、教訓説話のようにアレンジされる。教育的見地というフィルターのせいである。
「よい子のみんな、約束はきちんと守ろうね」。
笛吹き男の物語から学ぶべき戒めはこれだろう。つまりは復讐の話であり、さして魅力的なストーリーでもない。教育的ナントカが入ったとたんに訓話めいてしまうのは、興ざめ以外のなにものでもない。
約束を反古にして仕返しされる話より、むしろ「大勢の子どもが町から消えた」というむき出しの事実のほうが闇が深くて興味をそそる。もしやこれは、正史には書かれない中世ドイツのダークサイドを伝えているのではないか。

本稿では、児童を連れ去った男の正体や失踪者の行方についての仮説を交えながら、13世紀末のドイツの一地方で何が起きたのかを探っていく。

目次

「ハーメルンの笛吹き男」ってどんな話だったっけ

絵本でもおなじみの「ハーメルンの笛吹き男」。その時々の世相や対象読者層に合わせて柔軟に改変されてきたが、大筋はこんなところだ。

今から700年以上も前のこと。
ネズミの大量発生に困り果てていたハーメルンの町に、「ネズミ捕り男」を自称する奇妙な男があらわれる。色とりどりの派手な衣装を着ていたので、みんなは「まだら男」と呼んだ。「まだら男」は言う。
「わたしがネズミを退治してあげよう。ただし、礼金はいただく」
ハーメルンの住民は、藁にもすがる思いで申し出にとびついた。すぐに商談がまとまった。

男は通りにでて、おもむろに笛を吹きはじめた。すると不思議なことに、その音色に誘われて町じゅうのネズミが集まってきた。男が歩きはじめると、音色に導かれるようにぞろぞろとあとをついていく。ヴェーザー川にきたところで男が川に入ると、ネズミたちも踊るように次々と川に身を投げた。こうしてネズミは一匹残らず溺れ死んでしまった。
みんなは大喜びだ。

ところが——。
報酬を払う段になって、なんだか金が惜しくなった。
「笛を吹いただけじゃないか……」
ハーメルンの人々は約束を反古にして、ネズミを駆除してくれた恩人を町から追いだすことにした。男はこう言い残して町を去る。
「よろしい。では、代わりにおまえたちの宝物をいただこう」

しばらくして、男がふたたびハーメルンにあらわれる。今度は恐ろしい狩人のいでたちで。
あの日のように笛を吹きながら通りを歩くと、その音に操られた子どもたちが家々からとびだしてくる。そしてネズミと同じようにつき従い、市門を出て、山のふもとの洞窟に姿を消した。洞窟の口は内側から岩でふさがれてしまい、子どもたちはそれきり二度と戻らなかった。

結末にはバリエーションがある。耳の聞こえない子や足の不自由な子は難を逃れたというものや、全員が無事に帰ってくるハッピーエンドのものまで、バラエティに富んでいる。

さて、この物語は史実をベースにしたものと先に述べたが、もう少し補足しておこう。
信頼できる史料によれば、「1284年6月26日、ハーメルンにあらわれた男が130人の子どもを連れ去った」というのが歴史的事実であり、「ネズミ退治」「復讐」のエピソードは後世に付け足された創作となる。真っ先に浮かぶ疑点が三つある。

  • 「笛吹き男(ネズミ捕り男)」として描かれた男の正体
  • 子どもたちの行方 
  • 失踪事件が「ネズミ捕り男復讐伝説」に変容した理由

複数の史料を参考にしながら、この三点にポイントを絞ってみていくことにする。

マルクト教会のステンドグラスは語る

最古の史料とされているものは、ハーメルンのマルクト教会のステンドグラスに1300年頃に描かれていたというガラス絵だ。この痛ましい出来事を、読み書きのできない人々にも心にとどめてもらいたくて絵に残したのだろうか。当時のステンドグラスは現存していないが、ガラス絵を模写した水彩画が残っている。

絵のなかで、笛吹き男はカラフルな衣装をまとい、先の尖った靴をはいている。右下にネズミが溺れたヴェーザー川。小舟で笛吹き男が笛を吹く。河畔には周囲を城壁に囲まれたハーメルンの町。いかにも中世ヨーロッパの城塞都市を思わせる。中央の樹々は森だろうか。鹿がいる。野生の動物がいて当然だ。獣や外敵から住民を守るための城壁なのだ。笛吹き男に先導された子どもたちが坂道を上っていく。遠くの山のふもとには首吊り台がみえる。残酷な公開処刑がここでも行われていたはずだ。ありふれた中世の情景。
添えられた絵解きの説明にはこうある。

「1284年のヨハネとパウロの日(6月26日)、ハーメルン生まれの130人の子どもらが笛吹き男に奪い去られ、コッペンにほど近い刑場でいなくなった」

日付を明記したうえで経緯を簡潔に伝えている。文中にネズミは登場しない。「コッペン(koppen)」とは古ドイツ語で「小山」「丘」を意味するが、どの山をさすのかはいまだに不明。
大量失踪の背景にいっさい触れていないため、謎は深まる一方だ。

史料に共通する数字

より詳細な記録としては、ミサの合唱書『パッシオナーレ』に記されたラテン語の詩と『リューネブルク手稿』がある。

まず『パッシオナーレ』をみていくと、原本はとうに紛失しているが、問題のラテン語詩を書き写した人物がいたという。詩には「1284年のヨハネとパウロの日、130人の愛すべきハーメルンの子どもらが連れ去られた」とある。

『リューネブルク手稿』は15世紀なかばに書かれたもので、筆者はおそらく修道士。いわく、「1284年のヨハネとパウロの日、ハーメルンで不思議なことが起こった。立派な身なりの男がヴェーザー門からやってきて、笛を吹いた。すると、子どもたちが集まり、男のあとをついて東門を抜け、処刑場の方角に向かい、そのままいなくなった。消えた子どもたちは130人」。
この手稿が発見されたのはリューネブルグの公文書館である。このことからも、公式記録として扱われる実際の事件だったことが示される。しかも、どの記述も数字が一致。もとより日付、固有名詞、人数などが具体的に記されたケースというのは、事実である可能性を無視できない。

注目したいのは、これらの古い記録にみられるもうひとつの共通点だろう。ネズミ退治の話がいっさい登場しないのだ。

結合したふたつの事実

では、ネズミ捕りのエピソードはいつから、どんな理由で挿入されたのか。
先学の調査でわかっているのは、登場するのは16世紀に入ってから。つまり、「ハーメルンの笛吹き男」は実際に起きた事件にネズミ退治の話が後付けされたものだった。「中世ヨーロッパ」「ネズミ」とくれば、そう、黒死病(ペスト)である。町や村を丸ごと全滅させるほどの猛威をふるったパンデミックが伝承に影響を与えたことは容易に想像できる。

そもそもネズミの大繁殖は、森林を次々に伐採して開墾したせいで天敵が激減したことに起因する。同時代に吹き荒れた魔女狩りでも、魔女の使いとみなされた猫が大量に殺された。加えて、当時は家庭ごみや排泄物を窓から外に捨てるのがあたりまえ。人口の増加や
都市の成立によって、ネズミが繁殖するのに最適な条件がそろっていた。

ペスト菌はネズミの体内にひそみ、寄生するノミが伝播して人にうつす。これが判明したのは19世紀になってからで、そうした科学的知識は中世の人々にはない。しかし、ネズミの大量発生とペスト流行が不思議と重なることから、両者の関係が怪しまれていたのだ。だから中世近世のヨーロッパにはネズミ駆除を生業にする者がいた。事実、ネズミ捕り男伝説はドイツのハーメルンだけでなく、オーストリアやスペイン、アイルランドなど各地に残っている。

彼らは定住地をもたず、ネズミを駆除して町から町へと流れる放浪者だった。ハーメルン事件では「立派な身なりの男」だったにもかかわらず、その人物像が「派手ないでたちの笛吹き男」に変わったのはなぜだろう。
「笛を吹く」というポイントが強調されたのは、当時は賤民扱いだった旅芸人への差別意識が投影されているように思える。土地を基盤とした封建社会のなかで、土地に根付かず放浪する旅芸人はかなり異端な存在だ。城壁の外の世界を知らない定住民にとって、どのコミュニティにも属さない流れ者は素性がわからず、定義もしにくく、不穏なのだ。
旅芸人同様、ネズミ駆除業者もあらわれては去っていく。ハーメルンの人々にとって、「ネズミ捕り男」は怪しい力をもつストレンジャーにほかならない。

口承の過程で、さらに話はふくらんでいく。物語風のテイストをもつようになったのは、さまざまな時代背景が加わったあとだ。
装飾をはぎ取れば、骨格だけが残る。
「ある年のある日、大勢の子どもらが見知らぬ男に連れ去られた」というショッキングな現実だ。

子どもたちはどこへ消えた?

130人の失踪事件。あらためて人数の多さに驚く。130人という数は、当時のハーメルンにおいてどれほどの人口比率を占めていたのだろう。ある研究者の推計では、近代なら2000人から2500人に相当するという。将来の労働力となる少年少女が一挙に消えたのだから、恐るべきロスである。

男は何者だったのか。なぜ子どもたちは男と一緒に行ったのか。生きているのか死んだのか。
これまでに提唱されてきた仮説のいくつかをご紹介しよう。

笛吹き男の正体は死神~病気説

流行り病に罹患した子どもたちを町の外へ隔離して見殺しにしたという説。
この説では笛吹き男は死神となる。これ以上の感染拡大を防ぐため、やむなく病人を犠牲にしたわけだ。かわいそうなことをしたという自責の念が強かっただろうし、犠牲者を忘れまいとする贖罪の気持ちもあっただろう。

ただし、中世ヨーロッパにおけるペストの大流行は、1347年にシチリア島に上陸したペスト菌が端緒となるので時期が合わない。そもそも流行り病なら、子どもだけを隔離しても意味がない。子どもなら容易にだませて連れていけるから? それとも子どもだけがかかる伝染病? どちらも説得力に欠ける。

町ぐるみで児童を売った~人身売買説

町が経済的に困窮したため、口減らしのために少年少女を奴隷商人にさしだしたという説。
派手な衣装で陽気な音楽を奏で、ちびっ子たちの気を引いた笛吹き男はブローカーだ。わが子を売った親たちは、せめてもの罪滅ぼしに、この一件を形に残して忘れずにいてあげたいと考えた。だから「よそ者に連れ去られた」ことにして、加害者である自分たちを被害者に仕立てた。子を売るという罪深い行為だからこそ、行方も伝えないことにした。

一応、筋は通る。そういえば、「ヘンゼルとグレーテル」も継母に捨てられる話だった。原作では実母だが。
ただ、この説にもひっかかる点がないではない。『リューネブルク手稿』である。このように公文書に過去の事件を記す場合、その資料となるのは過去の公式記録であるはずだ。元をたどれば、原資料はハーメルンの公式記録としか考えられない。町ぐるみで児童を売るという黒歴史を、多少改竄するとはいえ、公文書に残すだろうか。地域の伝承にとどめるならまだしも。

また、子どもたちが将来の労働力であることを考えると、大量消失は町の存続にかかわる。これほどの大人数を口減らしにしなければならないほど切実だったとも思えない。
古来ハーメルンは水車の町として知られ、碾臼(ひきうす)用の石材という輸出品もあり、製粉業で潤っていたという。役所がネズミ対策のため、駆除を奨励していたという事実もある。食料のないところにネズミは跋扈しない。町全体が逼迫していたとすれば、その理由がわからない。

笛吹き男の正体は徴兵係~少年十字軍説

笛吹き男は新兵徴募官であり、子どもたちは少年十字軍に参加したという説。
耳や足が不自由な子は町に残ったという異説に注目した推察だ。つまり、従軍できたのは健常者だけ。男の「立派な身なり」にも符合する。この説では、130人は戦死してしまったか、だまされて奴隷商人に売りとばされ、帰還がかなわなかったとする。

この説に反論が唱えられるようになったのは近年になってから。これまで伝えられてきた少年十字軍の概要は、かなり史実と異なることがわかってきたのだ。「少年十字軍」と呼ばれてはいるものの、実態は身分の低い成人も多く参加した民兵組織であり、未成年だけの集団ではなかったことが明らかになっている。
だとしても、ハーメルンの子どもが参加した可能性がゼロとは言いきれないだろう。仮にこの説が真相だとすれば、新たな謎が生まれてしまう。少年十字軍のことを町が隠す理由がないのである。

笛吹き男の正体はロカトール~東方移住・植民説

ここ最近、注目を集めている新説が東方移住・植民説だ。
東方植民とは、12世紀から14世紀にかけて行われたドイツ人の植民活動。背景には、農業生産力の向上、人口増加にともなう西ヨーロッパ世界の膨張がある。
開拓民を募ったのは、ロカトールと呼ばれる植民請負人。土地不足に苦しむドイツの農民に新天地を紹介する広報担当兼スカウトマンだ。この説では、笛吹き男はもちろんロカトール。「130人の子どもたちが連れ去られた」のは、「大勢の若者が移住した」ことを意味する。ロカトールは洒落た装いで豊かさを強調し、新天地がいかにすばらしいかを住民に説いた。
「東に楽園がある。そこで暮らしてみないか?」

ここでもう一度、事件の起きた日を思いだしてみよう。その日が本当にヨハネとパウロの日(6月26日)だったとすれば、殉教聖人を追悼する記念日である。陽気な夏至祭と結びついた聖ヨハネの日(6月24日)とは趣が異なる。追悼祭には、真っ当な大人たちは教会へ行くはずだ。あとに残されるのは教会にも行けない、または行く気すらない下賤の者と、跡取り息子ではない次男、三男、四男、以下つづく。なにせ多産の時代だ。
ロカトールは言葉巧みに誘いかける。
「今がチャンスだ。決断したまえ。家長や雇い主が教会から戻る前に。彼らはきっと反対するぞ。きみたちは都合のいい労働力なのだから」
この町にいても希望はもてない。行く末はたかが知れてる。それならいっそ、新天地にかけてみようか。
彼らはその気になった。

移住者の大半は「子ども」ではなく「大人」である。当時は下層民を蔑んで「少年」と呼んだというのだ。「ちっぽけな人」「小身の分際」という意味合いだろうか。後世の人々が「少年少女」と誤解したのも無理はない。米国で黒人男性を“boy”と呼ぶことが人種差別的な意味をもつのと同じニュアンスだろう。
また、その土地生まれの人間を「○○の子」と表現することもある。日本でも「江戸っ子」「浜っ子」などという。
研究者たちによる地名・人名研究も説の信憑性を高めている理由と思われる。ポーランドやドイツ東部には「ハーメルン」「ハメルン」「ハメラー」などという名字が集中する地域があり、これらはハーメルン由来の姓だというのだ。この時期に建設された東ヨーロッパの都市のなかには、ハーメルンからの移民が開拓したものもあるのではないだろうか。

妄想劇場~東方植民説からの「悪魔が来りて笛を吹く」

ロカトールによって大量の働き手を奪われたハーメルンの人々は考えた。
このままではいかん。こんなことが続いたら、町に未来はない。なんとしても食い止めねば。
立派な身なりのよそ者には気をつけろ。あいつは悪いやつだ。町の働き手をさらっていく悪魔だ。
こうして集団移住は「ハーメルンの笛吹き男」になった。

「楽しい笛の音が聞こえても、甘い言葉で誘われても、けっしてついていってはいけないよ。ついていったら死んでしまうよ」

つまり、これは警告なのだ。ちょっと強引か。が、ありえなくはない。

ハーメルンの記録は、この事件を起点にした年代記になっている。たとえば、「この市門は魔法使いが130人の子どもを連れ去ってから272年後に建てられた」というふうに。
旧市街には中世の「ネズミ捕りの家」がある。消えた130人への追悼の意をこめて、音楽や歌を禁ずる「舞楽禁制通り(ブンゲローゼシュトラーセ)」も往時の名残りをとどめている。この通りにさしかかると、婚礼の行列までもが演奏を中断し、音を立てずに黙して進み、渡りきったところで演奏を再開するという。あの日、子どもたちが歩いた道だろうか。
夏にはマルクト教会前で笛吹き男の野外劇が上演される。ハーメルンという街が、この伝承とともに歩んできたことの証だろう。

今回は、史学では黙殺されがちな一般庶民に光をあてて事件の真相を探ってきた。結局のところ、正解はわからない。それもいい。ミステリアスでありつづけるうちは考える余地を残してくれるから。
史実が悲劇でないことを祈る。が、なにせ暗黒時代のことだ。現代人の机上の妄想より、はるかに恐ろしい結末が隠れていても不思議ではない。

featured image:Creator:Augustin von Moersperg, Public domain, via Wikimedia Commons

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