太平洋戦争の後半、日本の戦車部隊は新たに現れたアメリカ軍のM4シャーマン戦車に対してどのように戦ったのだろうか。
シャーマン戦車が最初に太平洋戦線に現れたのは1943年11月のタラワ上陸作戦である。主砲75ミリ、砲塔正面の装甲が76ミリ、車体正面の装甲が50ミリのシャーマン戦車に対して、日本の37ミリ対戦車砲ではまともな戦いは出来ず、陸軍機甲本部では翌年の1944年8月になって、ようやくM4シャーマン戦車に対する射撃要領をまとめている。
当時戦場にあった日本軍戦車の中で最も対戦車戦闘力があったのは、装甲最大25ミリ、1式47ミリ戦車砲を装備した97式中戦車改(チハ改)だった。しかし装甲と打撃力の差は歴然としており、機甲本部の射撃要領によると、M4シャーマンに対してはゼロ距離(100メートル以内)での砲塔基部やペリスコープへの射撃や砲塔後部への射撃。1000メートル以内での車体側面への射撃を推奨して、正面への射撃は「有利ナラズ」としている。要するによほどの運と技量が無ければ、チハ改ではM4とはまともに戦えないと言う事であった。
1945年1~2月、フィリピンのルソン島では戦車第2師団のチハ改とM4シャーマン戦車との激しい戦車戦が行われた。1月17日、マニラ北西のビナロナン付近でM4を待ち伏せしていたチハ改は、まさに射撃要領どおりのゼロ距離射撃でM4を何両も擱座させているが、悲しいかな一度姿を暴露したチハ改はその後ことごとくアウトレンジの猛烈な反撃を受けて大損害を出している。
また、2月にはチハ改が線路の土手を乗り越えて来るM4の正面下部に撃ち込みこれを撃破、続いて来た第2車も擱座させたが、その後強烈な返り討ちに遭いチハ改の方も破壊されている。この時は射距離250メートルで、土手を乗り越えるM4の前面下部装甲(50ミリ)に対して射角が直角になり貫通したものとされている。また1945年3月には、ビルマ戦線でもチハ改がM4を見事に撃破している。
メ―テクーラ付近で後退する軍の後衛として敵を待ち伏せしていた2両のチハ改は、前方から迫って来るM4戦車の隊列を発見、多勢に無勢で決死の覚悟で戦闘準備に入った所、なぜか前方400メートルの所でM4の隊列は直角に曲がり、横っ腹を見事に曝け出したのである。
この時2両のチハ改は47ミリ砲を正確に撃ち込み8両のM4を擱座炎上させている。M4の側面装甲は38ミリで、400メートルの距離であればチハ改の47ミリ砲は容易に撃ち抜くことが出来たのである。
これは崩壊寸前のビルマ戦線での見事な戦果であり、またM4に対する貴重な戦訓にもなった。M4シャーマン戦車と何とか互角に戦える75ミリ戦車砲を装えた三式中戦車は、この時点では100両以上が本土の戦車連隊に装備されていたが、これらは本土決戦に備えて温存されついに実戦に参加することは無かった。
もっとも、シーレーンが壊滅状態だったために前線に送ろうにも送りようがなかったのが現実かも知れない。戦争末期の前線で、脆弱な機甲兵力にもかかわらずまさに背水の陣でアメリカ軍のシャーマン戦車に立ち向かった日本軍戦車部隊の健闘を称えたいものである。
参考文献
土門周平 入江忠国 共著 「激闘戦車戦」
木俣滋郎 著 「戦車戦入門」(日本篇)
icon image : 作者 日本語: 日本陸軍English: Imperial Japanese Army [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由
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コメント一覧 (1件)
まともな戦車戦にならない事は前線の日本の戦車兵が痛感させられていたから、ジャングルで完全に偽装し待ち伏せかダックインして戦うしかなかった。
前線の現場の改善の声を無視し「大和魂で戦え」と、合理性皆無のバカ帝国陸海軍。
ルソン島・ビルマとも戦車連隊は全滅である。健闘もクソもない敗戦である。