ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ(以下:ラインハルト・ハイドリヒ)はナチス・ドイツの軍人であり、政治家。ナチス親衛隊に所属し、ハインリヒ・ヒムラーに次ぐ親衛隊の実力者となり、ユダヤ人政策の最終的解決政策の推進者であり、ナチのユダヤ人虐殺を推し進めた象徴的な人物でもあるのです。
ナチ内で有望視されていた人物でしたが、のちにベーメン・メーレン保護領と呼ばれるチェコ植民地の責任者となるも暗殺されてしまいました。死因は手りゅう弾の破片による怪我によるものですが、「万一かぶったら1年以内に死ぬという噂の聖ヴァーツラフ王冠をかぶったから」という説もあり、この説について解説します。
ラインハルト・ハイドリヒとはどんな人物?
ラインハルト・ハイドリヒの最終階級は親衛隊大将であり、ゲシュタポ長官と親衛隊諜報部長官も兼ねていました。
ハイドリヒは1931年に親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーの面接を受けて、優秀な成績で親衛隊に入隊しています。
そもそも彼の経歴の「通信将校」を「情報将校」と勘違いし書類選考を通過。
面接のときに自分が好きなスパイ小説を基に出まかせをいうとヒムラーの心をつかんで入隊した経緯があります。
万一この時にこの偶然が重ならなければのちの歴史的悲劇は起こらなかったかもしれません。
出まかせで入ったものの彼の実務は優秀であり、次第にヒムラーの右腕的存在となっていき、ヒムラーに次ぐ実力者となっていきました。
親衛隊大将や国家保安本部(RSHA)の初代長官、最終的にはベーメン・メーレン保護領総督(チェコ植民地責任者)にまで上り詰め、ユダヤ人に対する政策も接客的に実行していき、ユダヤ人虐殺も実質的な推進者であり、ユダヤ人虐殺の象徴的な存在となったのです。
具体的にはユダヤ人の追放・ユダヤ人をゲットーに隔離しする政策を推し進めたり、多くの対立する人物を粛清しました。
これらの行動から冷酷無比な性格はドイツ国内で評判となり、ナチ党の古株党員からも恐れられる存在だったといわれています。
性格は冷酷で、ユダヤ人に対する迷いない行動力、長いナイフの夜事件などの多くの犯罪行為にもかかわった人物でした。
その冷酷さから「金髪の野獣」と呼ばれ、その優秀さと冷酷な仕事ぶりはヒトラーからも信頼が大きかったといいます。
彼がもし暗殺されず、ナチ支配が長く続いていたならばヒトラーの後継者は彼だろうと考えられていました。
冷酷無比のハイドリヒの性格は、めったに笑わずに人の前に出ることを好まない性質だったそうです。
そしてスポーツは万能で、特にフェンシングはオリンピック選手に選ばれる程の腕前で、そのために親衛隊では体育館監察官を務めるほどのスポーツマン。
フェンシング以外にも、乗馬・飛行機・スキーなど幅広くこなす器用人だったようです。
ラインハルト・ハイドリヒの死の真相は?
ハイドリヒは1943年にベーメン・メーレン保護領の支配者となり、彼は恐怖政治を敷きチェコの統治は円滑に進み、さらに出世が見込まれていました。
ハインリヒはプラハに到着すると同時にチェコ全土に戒厳令を敷き、簡易裁判所を設置。
首相アイロス・エリアーシを見せしめに逮捕し処刑。数週間後には主だった反体制勢力を一掃し、拘束者を即銃殺刑、公開処刑も行っています。
そのためにハイドリヒは「プラハの虐殺者」と呼ばれました。
当然沢山恨みを買っていましたが、彼は「私のチェコ人が、どうして私を殺すのかね?」といい、まったく警戒せずわずかな護衛とオープンカーで視察していたといいます。
どこにそんな自信があるのかはわかりませんが、どうやら自らの統治に自信を持っていたようです。
視察の件はヒムラーからさんざん注意されていたといいますが、改めることはありませんでした。
イギリスのチャーチル首相や在英亡命チェコスロバキア政府は、ハイドリヒの暗殺計画「エンスラポイド作戦」を提案。
チェコ軍人を暗殺部隊に育てる計画に積極的に援助し、1942年にチェコのプラハを視察中だったハイドリヒを銃撃と爆破攻撃にかけ、ハイドリヒは直撃を免れたものの、手りゅう弾の破片にいるけがをし、怪我が元の感染症により死亡してしまいました。
彼の死はナチスドイツに反発するチェコスロバキア人民が実行していますが、一つの都市伝説があります。
それはかぶったら1年以内に死ぬという王冠をかぶったためという疑惑があるのです。
聖ヴァーツラフ王冠とはどういったものか?
命を落とす7か月前にプラハ城内にある聖ヴィート大聖堂という教会に安置されていたボヘミア王の王冠をかぶったのです。その王冠は「真のボヘミア王(現:チェコ)以外のものがかぶれば必ず一年以内に死ぬ」という伝説がありました。
ナチスはもともと神秘主義の集団だったために、オカルト好きが多いものの、ハイドリヒは合理主義で全く信じていません。そのために伝説を否定するためにこっそり王冠を「戴冠した」といいますが、戴冠後7か月後にレジスタンスにより暗殺されていますのです。
偶然が重なったものといわれていますが、この伝説は今も広く信じられています。
結局伝説は本当だったのか?
結局伝説は本当だったのか?
実は噂だけでかぶっていないという話もありますが、伝説通りに死亡した歴史的事実は残りました。
筆者の感想ですが、ラインハルト・ハイドリヒは非常に頭がよく、チェコもうまくまとめている自信があったようですが、他民族の支配を望むものはいません。
性格的に、親衛隊の中まで敵だらけの彼はいづれ暗殺されてそうな気もしますが、王冠の伝説に沿った死を受けたことは必然のような気もしてしまいます。
チェコ人民のプライドが詰め込まれた王冠を、軽々しくかぶる無神経さや多方面に影響したのではないでしょうか。
真実はわかりませんが現在も王冠は大切にされ、大統領就任時はガラスケースに入り鑑賞できるといいます。
それもまた歴史のロマンではと感じた次第です。
featured image:The original uploader was Schmausschmaus at English Wikipedia., Public domain, via Wikimedia Commons
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