20年ほど前、航空自衛隊の某基地に勤務していました。
阪神大震災のあの日、私はそこにいたのです。
震災の朝
私は航空自衛隊の某基地に納入していたシステムの保守などのために会社より派遣されて、ひと月の半分はビジネスホテル暮らしをしていました。
阪神淡路大震災の日も、その前夜にホテルに投宿していたのです。
まさか、あんなことになるなんて思いもしないまま、就寝し、ほぼ夜明け前に激震に飛び起きることになったのです。
テレビしか情報源が無い
今のようにインターネットがあるわけでもなく、もちろんSNSもない。
唯一の情報源であるテレビをつけても、断片的な情報が入ってきませんでした。
そんな状況のなかで、いつもより早めに朝食を取りにロビーまで降りたのですが皆さん同様に不安げでした。
同じ会社の人がいたので、早めに出勤しましょう、ということでタクシーを呼んでもらい基地に入ったのです。
同じ建物にいる隊員の人たちは、そこも激震であったゆえにシステムのチェックを始めており、しかし、それ以上のことは出来ないままだったのです。
当時の政権では自衛隊は即時対応を許されていなかった、という理不尽さに怒りを感じながらも、その日に出来ることをするしかなかったのです。
何もできないままのその日
いつでも出動できるようにと準備を進めつつ、しかし出ない命令にイライラし始める中、淡々と日々の業務をするしかなかったのですが、自衛官の人たちは腹を括って淡々と『出来ること』をしていました。
結局初動に関しては陸自優先で、その時、その基地から出来ることは殆どなかったように思います。
しかし、まさに『出来ること』がありました。
私たちも含めて、殆どの人たちが献血に並んだのです。
基地の中に来た日赤の献血車には多くの人が並びました。動けないなら、せめて現地で役立ててもらいたい、という思いから昼休みを返上して献血しに行ったのを今でもはっきり覚えています。
私たちのことを思いやってくれる心遣い
そして震災より3日後の金曜、私は東京の会社に戻るために移動することになっていました。
新幹線は動いているのだろうか?
インターネットがまだ普及する前のことで、ニュースだけが頼りでした。
不安に思う私に『気をつけて帰ってくださいね』と多くの自衛官の方から声をかけて頂きました。
現場に出ていきたいだろうに出られない。
そんな思いがいろいろとあったろうに、彼らは『その時に出来ること』を淡々としかし熱心にこなしていたのです。
法律が整って
それから年月が経って東日本大震災の時には、私は既に退職していましたが。
漏れ聞こえる自衛隊の活躍は皆さまご存知の通りです。
もてる力を存分に使えることの喜びは、苦難を経てこそ得たものだったのではないでしょうか。
勿論、使わなくてもよいことは、言うまでもありませんが。
自衛隊が活躍するときは、日本が危機的状況にある時です。
しかし、かつては危機的状況にあっても動くことが出来ない時期があった。
その苦い記憶も、忘れてはならないと思うのです。
※写真はイメージです。
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