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ルーマニア1989 ~チャウシェスクの失敗と流血革命~

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歴史が動く瞬間は、たしかにある。
昨日まではあたりまえだった世の中が、ある日突然ひっくり返る。
それをリアルタイムで教えてくれたのはルーマニアの人々だった。四半世紀にわたってニコラエ・チャウシェスクが独裁体制を敷いた国だ。
戦車に群がる民衆、共産主義のシンボルがくり抜かれた国旗。国家の崩壊、大統領の処刑。テレビに映る海の向こうの光景は、30年たった今も忘れることができない。

ソ連の兄弟国が無血によって民主化をなしとげた東欧革命にあって、ただ一か国、流血の戦闘を繰り広げたルーマニア。
それは一人の男の叫び声からはじまった。

目次

一人の声が国を変えた~チャウシェスク最後の演説

1989年12月21日午前11時、首都ブクレシュティ(ブカレスト)。
ニコラエ・チャウシェスクにとって、共産党本部庁舎のバルコニーと旧王宮広場は絶対的な権力の象徴だった。
1965年よりルーマニアに君臨してきた彼は、東ヨーロッパの共産党政権が次々と倒されるのを横目でながめながらも、自分は国民の支持を獲得しているとの自負があった。
自分の基盤が強力であることを民衆に知らしめたい。ティミショアラの宗教デモなど、叩き潰してやる。
チャウシェスクはこの日、大規模な支援集会を催した。支持者10万人を動員し、みんなが大統領を称えるさまを国営テレビで全国放送するのだ。
大統領がバルコニーで朗々と演説しているとき、ふいに群集のなかから叫び声があがった。

「人殺し!」

罵声が広場に響きわたり、あたりが一瞬凍りつく。声の主はブクレシュティ生まれのエンジニア、ニカ・レオン。彼はその朝、仕事場から妻に別れの電話をかけていた。死は覚悟のうえだった。

すると、少し離れたところで別の声があがった。勇者に呼応するかのように。
「そのとおり! あいつは悪党だ!」
同調する声がみっつ、よっつと増えていく。
「チャウシェスクのばかやろう!」
「おれたちは奴隷じゃない!」
「独裁者を倒せ!」
「チャウシェスクを倒せ!」

怒号の大合唱が巻きおこり、爆竹がけたたましく炸裂する。
……悪党? 彼らは何を言ってる? このわたしに、何を言っているのだ?
状況をよくのみこめず、とまどいの色を浮かべるチャウシェスク。支援集会はたちまち抗議集会と化し、あろうことか、それが全国に生中継されてしまった。セクリターテ(秘密警察)があわててテレビ中継を中断させる。

結果として、これがニコラエ・チャウシェスクの生涯最後の演説となった。そして、この人民集会がチャウシェスク打倒の気運を高め、ルーマニア全土で民衆の蜂起を促し、4日後の大統領夫妻銃殺へとつながるのである。
この演説の映像は現存しており、YouTubeにもアップされている。群衆の音声は聞きとりにくいが、にこやかな笑みを浮かべるチャウシェスクの表情が国民の敵意に気づいて凍りつくさまは、権力者の恐怖の瞬間をとらえた第一級のドキュメンタリーといえるだろう。

チャウシェスクの共産主義劇場

独裁者として晩節を汚したチャウシェスクではあるが、「偉大なる指導者」「千年に一度の逸材」と呼ばれて国内外の崇敬を集めた時期もあった。事実、彼は冷戦時代の英雄として登場したのだ。

ソ連の影響が強い東側陣営にありながら、大国には迎合せず自主独立路線。ソ連のチェコ侵攻を「恥ずべき汚点」と断じ、公然と非難したのは東欧諸国でチャウシェスクだけだった。
「どのように社会主義を構築していくかは個々の国の課題であり、部外者に介入する権利はない」
そう言って、ソ連がルーマニアに軍事基地をおくことすら拒否した。
毅然と立ち向かうチャウシェスクに国民は拍手喝采。当然ながら、西側諸国でも「剛毅不屈の人物」として受け入れられる。チャウシェスクは積極的に東西両陣営を訪問し、友好関係を築いていく。西側諸国の融資を得て国内の経済の活性化を図るなど、初期の政策は非常に有効に機能していたのである。

ところが、どうしたわけだろう。彼は、最高権力者が陥りがちな罠にあっさりとおちてしまったのだ。

チャウシェスクが変わったのは、1971年に中国と北朝鮮を訪問してからだといわれる。
訪中、訪朝を通じてアジアの共産主義国家を先進的だと考えるようになり、毛沢東や金日成の個人崇拝にも憧れるようになった。同じ共産主義国のトップでありながら、彼らはなんと贅沢な暮らしを送っていることか。
当時、大統領専属パイロットだったアウグスティン・ロディナは、こう回顧する。
「帰途につくチャウシェスクは、明らかにそれまでと変わっていた。なんと言ったらいいんだろう。不思議なオーラをまといはじめていたんだよ。わかりますか?」

帰国後は大統領の肖像画が国内各地に掲げられ、著作集も刊行された。歴史ある教会や修道院を解体し、贅をつくした公邸も建設した。もちろん富と権力は一族がほぼ独占。一方の国民はといえば、セクリターテによる監視社会におびえながら、日々の食料や冬の暖房の燃料すら事欠く生活を強いられた。もちろん最低限の食料は配給される。社会主義国は餓死しないようにできている。しかし利益が国民に還元されることはない。
つとに有名なのは、のちに「チャウシェスクの落とし子」と呼ばれる、10万人とも17万人とも推定される孤児を生んだ堕胎禁止法だろう。この悪法は国内におけるエイズ感染の蔓延をも引き起こした。国民を顧みない独裁者への反感はしだいに高まり、1989年11月27日深夜、ナディア・コマネチが自らの足でハンガリー国境を越えて西側に亡命する。チャウシェスク最後の演説の約一か月前のことだった。

大群衆の見守るなか、ヘリで逃亡

官製集会は抗議集会へと変貌し、各地で蜂起した人々はデモ隊となって首都の中心部へ押し寄せた。
身の危険を感じたチャウシェスクは、軍隊による武力鎮圧を国防大臣のヴァスィーレ・ミーラ将軍に命じるが、将軍はこれを拒む。
「民衆に発砲はできません」
まもなく、銃で撃たれた将軍の遺体が発見される。国営放送は「自殺」と報じたが、国民は信じなかった。謀殺の噂は軍部にも広がり、大統領に忠誠を誓ったはずのルーマニア国軍までもが革命勢力の側に回る。チャウシェスク側につくセクリターテとの武力衝突は避けられなかった。市街戦がはじまる。

12月22日、革命軍は共産党本部を占拠すべく、装甲車を連ねて庁舎に迫ってきた。正午すぎ、群衆が建物になだれ込むとほぼ同時に、大統領夫妻はわずかな側近を連れて屋上からヘリコプターで脱出。この瞬間、チャウシェスク政権は崩壊した。革命勢力は共産党の反チャウシェスク派とともに暫定政権「救国戦線評議会」を組織し、イオン・イリエスクを議長に選出する。

逃亡したチャウシェスクを待っていたのは、多くの裏切り行為だった。ヘリコプターのパイロットをはじめ、誰一人として彼らに協力する者はいなかったのだ。チャウシェスクは情報収集を試みるが、すでにテレビもラジオも救国戦線に掌握されたあと。妻エレナとともに身柄が拘束されたのはその日の夕刻である。

クリスマスの処刑

12月25日、新政権となった救国戦線は特別軍事裁判を開廷する。が、実際には兵舎の一室につくられた仮設法廷での略式裁判となった。起訴内容は、6万人以上の大量虐殺、不正蓄財、国家経済を衰退させたなどの罪。

チャウシェスクは公判のあいだ、「議会の承認がない裁判は茶番であり、検察官の言い分も無効である」とくり返し主張。
裁判官は、「茶番とは、あなたが25年間おこなってきたことだ」と返した。
弁護人ですら、「ここに及んで彼に議会での発言権を与えることは、国民に対する犯罪にほかならない」と一蹴している。
14時45分、全財産没収ならびに死刑判決が下される。1時間にも満たないスピード裁判。壁の前に連行され、二人並んで銃殺刑に処されたのは、死刑宣告のわずか5分後のことだった。

裁判と銃殺刑前後の映像はショッキングのひと言につきるが、血を流して横たわる夫妻の遺体まで公開する必要が新政権にはあったのだ。いうまでもなく、チャウシェスク生存説を封じるためである。
二人の最後の言葉は「裏切り者を殺せ! 歴史がわたしの敵討ちをしてくれるだろう!」、「よく考えなさい! わたしはずっと、おまえたちの母親でありつづけてきたのよ!」だったという。

チャウシェスクの死後、こんな説が生まれた。
側近たちはチャウシェスクに良い報告しかしておらず、そのために大統領は内政はうまくいっていると思いこんでいたというのだ。
チャウシェスク自身、国民からの絶大な支持を最後の最後まで信じていたという証言も多く残っている。だとすれば、群衆の怒声に言葉を失い、驚きの表情をみせたのも一応の納得はいく。

いっときはわが世の春を謳歌するも、ついには引きずり下ろされて処刑されたチャウシェスク。
彼は今、愚行をつづけるプーチンの脳裏にもたびたび現れているのではないだろうか?

参考文献『赤い王朝』イオン・M・パチェパ著/住谷春也訳

※画像はイメージです。

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