わが国には、たとえ考古学上重要な史跡であろうと、発掘調査が許されない899の聖域がある。端的にいえば、天皇陵をはじめとする天皇家のルーツに関わる場所だ。これらはすべて宮内庁の管理下におかれていて、文化財保護法の適用外となっている。
天皇家の陵墓の守り人である宮内庁と、文化財としての学術調査を求める研究者。それぞれの立場や主張の隔たりが古代の謎の解明を阻んできた。結果として、この国の黎明期は正史日本書紀による神話混在の不明瞭なありようのまま現在に至っている。
そんな数多い古代ミステリーのなかに「空白の4世紀」というものがある。西暦267年から412年の日本の歴史を今もわたしたちは解くことができずにいる。この4世紀前後に邪馬台国は消滅し、いつのまにかヤマト王権が誕生した。文化的にも人類学的にも大激変が起きた時期なのに、その実態は菊のカーテンに閉ざされたままなのだ。
日本史から消された女王・卑弥呼
西暦247年ごろに没したとされる親魏倭王・卑弥呼。「卑弥呼」も「邪馬台国」も、おそらく中華王朝による穢名なのだろう。古代日本語の音に当て字をした名前ということは想像できるが、どこか「夜露死苦」や「摩武駄致」に似たバイブスを感じる。いずれにせよ、中華思想や朝貢外交の哀しさがよく表れた蔑字だと思う。
日本では一般的に「ひみこ」の読みで通っているが、残念ながら正しい発音はいまだに不明。「卑弥呼」や「邪馬台国」が実際にどう呼ばれていたかがわかるだけで、古代史の解明作業はずいぶんやりやすくなるはずだ。
さて、中華王朝のさまざまな正史に登場するほどビッグな卑弥呼さまだけれど、肝心の自国の正史では奇妙なことになっている。「卑弥呼」の「ひ」の字も見あたらないのだ。
ただし完全スルーというわけではなく、日本書紀の神功皇后の条に「魏志によると、239年に倭の女王が魏に使者を遣わした」とあり、神功皇后を卑弥呼と匂わせる意図がありありとみえる。もちろん「卑弥呼は神功皇后」と言いきるような書き方はせず、あくまで「あのね、魏志はこう言ってるよ」と誘導するしたたかさだ。もしタイムトラベルが可能なら、書紀の編者に会いに行って訊ねたい。「読んでるじゃないですか、魏志倭人伝。いろんな中華正史を参考にしたんでしょ? だったら卑弥呼の存在を知らなかったはずはないよね」と。会ったところで言葉が通じないだろうけど。
日本の正史に卑弥呼が登場しないのは、ヤマト王権以前に君臨した王がいたことを隠したかったからなのか、それとも日本では別の名で呼ばれていたからなのか。いや、そもそも神功皇后が架空の人物かもしれない。この場合はもちろん「卑弥呼=ヤマト王権の人間」と思わせるための創作だろう。
「日本に文字はなかった」は本当か
通説では、4世紀後半に漢字の使用がはじまるまで、日本に文字はなかったことになっている。学校の歴史の授業でも、8世紀の記紀(古事記と日本書紀)が最古の歴史書と教えられた。
「最古」ってなに? 先行する史書はあったのに、それらが現存しないから「最古」なのか、それとも初めて編まれた歴史書だから「最古」なのか。この違いはとんでもなく大きい。
伊勢神宮の奉納文や銅鏡、岩に書かれた神代文字。近年、研究・発見が相次いでいる弥生時代の硯(すずり)。これらは、はるか以前から文字文化が浸透していたことを示す考古学的物証ではないのか。日本書紀に至っては、「一書に曰く……」と古史の記述を引いており、書紀の編纂以前から文献が存在したことを自ら白状している。そもそも国史の編纂は、その国の大切な国家事業だったはずなのだ。
聖徳太子と蘇我馬子が編纂した天皇記・国記が現存していたらなあ、とつくづく思う。そこに書かれた歴史や歴代天皇は、21世紀の常識とどれほど違っていたのだろう。記紀の歴史を正統なもの、すなわち正史とするために、編纂チームはこんなことをしたかもしれない。
- 先行する古史古伝や有力豪族の系図を没収、焚書する。あるいは偽とする。
- すでに浸透している文字の使用を禁止し、新しい文字を採用する。
- 神社の不都合な祭神名や縁起(由緒)を書き換える。
こうした操作を行うことで、以降のヤマト王権に都合のよい歴史をつくることが可能になる。そうなってしまうと、真実の古代史は発掘調査や他国の文献に頼って傍証を得ていくしかなくなる。ありがたいことに中華王朝の正史には日本に関する記述がたくさんあり、おかげで卑弥呼の存在もわかったのだが、ある年を境にぷっつりと情報が途絶えてしまうのだ。
空白の4世紀に謎の大激変
中華王朝の史書から日本に関する記録が忽然と消えるのは3世紀のこと。
「西暦266年、倭の女王が使者を遣わし、西晋に朝貢」
この記録に女王の名はないが、新たに倭の女王となった台与(とよ)とみられている。これを最後に大陸の公式記録から「倭」の文字はなくなり、再び登場するのが約150年後の倭王・讚(さん)。倭の五王の一人だ。
「西暦413年、倭国、東晋に貢物を献ずる」
つまり、267年から412年にかけての日本に関する記録がないため、この時期は客観的な文献史料がない状態。この間を埋めるものとしては好太王の碑文があるが、2000文字にすら満たず、判読不能な部分もある。この時代が「空白の4世紀」と呼ばれるのはこのためだ。
同時期、大陸では五胡十六国時代という戦乱の時代に突入しているから、東の小さな島国の記録どころではなかったと思われる。
注目したいのは、この4世紀前後にわが国で大激変が起きていることだ。
顕著なのが埋葬法。小高い丘にすぎなかった墳墓が前方後円墳などへ変化し、しだいに巨大化。銅鐸(どうたく)の製造はぴたりと止み、金属器も青銅から鉄へ。日本人の顔立ちも、彫りの深いソース顔の縄文系から、あっさりとしたしょうゆ顔の大陸系に。入れ墨の風習もいつしか消えていた。
魏志には「倭国に馬や牛はいない」という大注目の記述があるのだが、邪馬台国が歴史から消える時期を境に馬の骨や馬具が大量に出土するようになる。もちろん陵墓の副葬品も剣、鏡、玉から馬具や甲冑へと変わり、大陸や朝鮮半島の文化に近くなってくる。これらはわが国に馬が持ち込まれたことを裏づけるもので、馬とともに流入した集団がいたと推測できる。文化は自分で歩いてやってこない。人が連れてくるものだからだ。
渡来人は段階的に移住してきたのか、それとも大騎馬軍団が海を渡って侵攻してきたのか。そしてそれは邪馬台国の終焉と関係があるのか。
今ふたたびの騎馬民族征服王朝説
かつて日本中に一大センセーションを巻き起こした騎馬民族征服王朝説。言葉のインパクトが強すぎて、トンデモ論の香りすら漂うが、地道な研究に裏打ちされた学説であり、根拠なく突飛なことを述べているわけではない。少なくとも4世紀の大激変を過小評価してはいけないことがよくわかる。
提唱者の江上波夫先生はオリエント考古学の先駆者であり、東京大学名誉教授。「空白の4世紀」に何が起きていたかをこう分析する。
「前期の古墳文化と後期の古墳文化は根本的に異質のもの。後者は王侯貴族的、騎馬民族的文化であり、その広がり方は武力による征服・支配を暗示している。おそらく4世紀、大陸の騎馬民族が大挙して日本に押し寄せ、倭国を征服した。そんで、彼らが打ち立てたのが大和朝廷でーす!」
この仮説が発表されるや、「けしからん!」「不敬である!」と大バッシングの嵐が起こる。それもそのはず、当時は終戦から数年しかたっておらず、皇国史観が根強く残っていたご時世。そんな時期に万世一系やなんやかんやを蹴とばして、「天皇家のルーツは大陸にあり!」とやったのだから、まさにキング・オブ・タブーである。けれども、騎馬民族はやってくるのだ。おのれの征服欲を満たすためなら、たとえ海を越えてでも。
この説を完全に否定できる根拠はないのに、あまり受け入れられなかったのはなぜだろう。その背景には、この説を認めてしまうと先人の研究成果の否定につながるという恐れや、日本書紀ありきの歴史観があったように思える。古代史の謎や矛盾を無理なく説明できて、説得力もある九州王朝説がとかく黙殺されがちなのも同じ理由ではないだろうか。
しかし、年月の経過とともに騎馬民族征服説を裏づける考古学的発見が相次ぐようになり、にわかに現実味を帯びて再浮上してきた。たとえば前方後円墳。否定派の学者たちは、前方後円墳が日本にしかみられない点を指摘した。もしヤマト王権のルーツが大陸にあるなら、朝鮮半島や大陸にも前方後円墳があるはず、というわけだ。ところが最近になって朝鮮半島で前方後円墳の発見が相次いでおり、なかでも北朝鮮で発見された前方後円墳は日本のものより少なくとも300年は古いという。
加えて、江上先生が文化勲章を受章するという展開になった。もちろん勲章をもらったからといって自説が証明されたわけではないけれど。
天皇家のルーツは菊タブーなのか
日本がアメリカに無条件降伏した年の秋、GHQが大仙陵古墳(仁徳天皇陵)と伊勢神宮を極秘調査したという眉唾の話がある。
その目的は古代ユダヤの秘宝、失われたアーク(聖櫃/せいひつ)の探索であり、調査を終えたGHQは、大仙陵古墳の発掘調査を日本政府に固く禁じたと話はつづく。「天皇を国民支配の道具として政治利用してやろう」となれば、天皇家の「不都合な真実」は断じて発掘されてはならないというわけだ。
はっきりいえるのは、日本は底知れないほどミステリアスな国ということだ。日の丸ひとつをとっても、その起源すらはっきりとわかっていない。国内最大の墳墓に誰が眠っているのかもわからない。神話という形でぼかされた天孫降臨とは、国譲りとは何を意味するのか。
エジプトの王家の谷などと違い、陵墓は皇室の祖先の墓であり、被葬者の子孫がいる以上、先祖の墓に立ち入られることには抵抗があるだろう。けれどその一方で、古墳には文化財としての側面がある。すでにさんざん盗掘されているであろう太古の古墳を、いつまでもアンタッチャブルな聖域にとどめておく理由がわからない。自国の成り立ちや日本人のルーツを知る権利は国民にはないのだろうか。天皇家にしてみれば、墓荒らしも学術調査も「破壊」という意味で同じなのかもしれないが。
あそことあそこを発掘調査するだけで古代史はひっくり返るだろうと言う人がいるが、筆者も同感だ。もしかしたら高松塚古墳やキトラ古墳の被葬者もとうに判明しており、菊タブーとして公表を差し控えているだけかもしれない。
歴史に「もし」はないが、もし昭和天皇が戦後処理で天上され、天皇制そのものもなくなっていたならば、政治利用はおろか天皇家も宮内庁も今は存在していない。陵墓の学術調査はどのようなステージを迎えていただろうと思うことがある。
神話と史実、そしておそらく改竄や創作が入り混じった正史を頼りに真実をひも解くしかない古代史学者やアマチュア研究者たちは、これからも頭を悩ませつづけるにちがいない。
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