「今日の予定は」
キヨに問われてスタッフのかなえは、緊張に顔をこわばらせた。
「はい。十時から〇◇テレビの収録と、午後からは出版記念パーティーとサイン会があり、四時からジムに通い、六時から雑誌の写真撮影があり、八時からインタビューが控えています」
「いつものことながら、目いっぱいね。あたし昨日三時間しか寝てないのよ」
川辺キヨはわざとらしく溜息をつきながらも、その目は闘志に燃えていた。毎日が寸刻みに進行していた。最初に書いた小説が入賞し、二作目の作品が本年の直木川賞にえらばれてからというもの、あちこちの放送局から出演依頼が殺到し、さらに三作目が大ベストセラーになってからというもの、キヨの人生は大車輪で回転しはじめた。
キヨは、朝食が用意されているダイニングのテーブルについた。
早朝にかなえが調理したものだが、その量たるや作った本人が目をみはるほどの多さだった。まる一羽のチキンの蒸し焼き、和牛ステーキ三百グラム、天丼大盛、カツカレー、ブルーベリージャムとバターをたっぷりぬったトースト三枚、野菜サラダ二皿、ポタージュスープ、ミルク、コーヒー、紅茶、コーラ――。
かなえの常識だとこの料理をたべきるにはすくなくとも四人以上の人間が必要だったが、キヨはこれらを一人できれいにたいらげるのだ。
キヨがたべおわるまでそばにつきしたがっているかなえは、いつものことながら信じられない速度でたちまち皿を、器を空にしていくキヨの食欲に、茫然と見入るのだった。
今この国でもっとも多忙な一人に選ばれている人間というものは、こんなにも旺盛な食欲なのだろうかとおもうことでかなえはなんとかじぶんに折り合いをつけるようにしていた。
「さ、それじゃ、でかけるわね」
「お気をつけて」
外出用ドレスに着替えるとキヨは、玄関前に停車している高級外車にむかった。
有名になるまえのキヨのことは、ほとんどといっていいほどかなえはしらなかった。屋敷といってもいいほどの広大な住まいには、かなえのほかにも何人ものスタッフがいた。
そのだれひとり、彼女の過去をしっているものはいなかった。田舎のまずしい家庭の出身で、今のあのすさまじい食欲は、おさないころたべたいものもたべられなかった反動だとまことしやかにいうものもいたが、案外あたっているかもしれない。小汚い部屋で毎日、薄暗い照明の下でこつこつと小説をかきためていたというものもいたが、それもあながち、はずれていないのではないだろうか。とにかく現在の彼女からは想像もつかないような暮らしをしていたことはまちがいさなさそうだった。そんな過去をいまさらほじくりかえされたくないためか、それとも偶然か、雇うスタッフはみな、遠い各地から選ばれたものに限られていた。
それらのスタッフはみな、女性ばかりだった。女の一人暮らしということもあり、キヨがそれをねがったのかどうか、本当のところはだれにもわからなかった。一部情報では彼女にレズ志向があるからともいうが、男まがいの彼女の八面六臂の活躍ぶりからそんな噂がひろまったのかもしれない。
噂というのは恐ろしい。十数名いる女性スタッフたちは、そんな彼女の噂に影響されてか、なにかと彼女の気をひこうとするような行動をとるものがすくなくなかった。雇われた当初は粗削りの、男でも女でどっちでもとおるような――ある意味ジェンダーレスの先端をいくような――連中も、ここにきて数か月もたたない間に、妙にあだっぽいふるまいをみせるようになるものがあらわれだした。キヨの目を意識しているのはあきらかだった。
かなえも例外ではなかった。食事の世話から、彼女の衣装の準備と、もっともキヨと接触する機会の多い彼女だった。ときに朝寝坊しているキヨの寝室に、おこしに入ることも度々なので、人知れず他のスタッフにはない特権のようなものを感じて悦に入っていた。
これを利用しない法はない。彼女自身はこれまで自分をレズだと意識したことはなかった。しかしキヨにとりいるためとあれば、いくらでも意識してやろうときめた。彼女は今の仕事に不満はおぼえていなかったが、このままただ年をとることを考えると、やはり不安が先立ち、いつ解雇されるかとおびえているじぶんを思い描くのは辛かった。雇用関係だけで結ばれているといつかは、かならずそういう時期がやってくるのは明白だった。それを回避するためにももっと、親密な間柄になっている必要があった。
かなえは、容姿にはまったく自信はなく、これまで異性から声をかけられたこともなければ、同性からさえ、べつにレズとか関係なく、ちかづいてくるものはいなかった。田舎からでてすでに五年がたつが、五年まえ大地からひきぬいた泥まみれのジャガイモ然とした外見をそのまま今も維持していた。異性はともかく、せめて同性から好かれるように自分を、もっと洗練させておきたかった。
だが世の中には標準からはずれたものを嗜好する連中は意外といるようで、仕事の休みの日に、レズが出没するというひし形公園のベンチに夕方、かなえがひとりすわっているところへ、すらりとした背の、白のブラウスにジーンズ姿も凛とした女がちかづいてきて、なにもいわずに横にすわった。かなえは女からつたわる、熱気を意識した。
「ひとり?」
ほどなくして女は、なにか肌にまつわりつくような調子で話かけてきた。
「うん」
「いっしょにあそばない」
「わたしでいいの。まわりにはもっとかわいらしい女の子がいるみたいだけど」
「すでにみんな抱いたあとよ。おれって、初物食いなんだ」
この日を皮切りにしてかなえの、レズ巡礼が開始された。最初の女性の手ほどきがよかったせいで、かなえはすっかりレズにのめりこんでいき、たちまち数十人のレズ相手とのまじわりをこなしていた。
磨きをかけられたジャガイモ――かなえだったが、まだまだそんなことぐらいでひかりだすような彼女ではなかった。キヨのところでは他のスタッフとくらべるとあいかわらずもっさりしていて、まぶしいぐらい強くひかりかがやいているキヨのまえでは、どうころんでも泥まみれのジャガイモ以上のものにはなれそうにもなかった。
その夜キヨは、お抱え運転手にかかえられるようにして玄関前に停められた車からおりてきた。政治家のパーティーからの帰りらしく、次期首相候補といわれている大物政治家と飲んできたのだ。女性運転手の肩に腕をまわして、ゆっくりと玄関にはいってきた彼女から吐き出されたアルコール臭が室内にじゅうまんするなか、足取りはそんなにもみだれていなかったがさすがに、部屋にはいりこむと、いっときに酔いが回った模様で、いそいでかなえがささえなければ、床にくずれおちていたかもしれない。
「だいじょうぶですか」
かなえは最初は介抱のつもりでキヨに抱き着いたのが、そのうち、べつの目的が彼女のなかにめばえてきた。キヨがアルコールのせいでなかば放心状態にあるいまこそ、到底訪れそうにおもえなかった彼女との、女同士のまじわりをとげる、恰好の機会でなくてなんだろう。キヨに拒否されたらそのときは、解雇でもなんでもうけいれよう。いくらなんでも、警察につきだされたりはしないだろう。
覚悟をきめたかなえにはもはや、いっさいのためらいはなかった。もうろうとしているキヨを、二階の寝室までかかえてあがった。じっかの農家で毎日、畑仕事で鍛えた彼女の腕力は今も生きていた。
寝室にはいると、ドアにはかぎをかけた。ベッドによこたえたキヨの衣服をつぎつぎはがしとっていった下から、やがて彼女の、無駄な肉ひとつない、豊かにみなぎる裸身があらわれはじめた。そのすべすべした肌のかがやきに、おもわずかなえは目をほそめた。もしかしたらじふんのなかにははじめから、レズの傾向があったのではとおもえるほど、キヨの裸身は彼女をつよく魅了せずにはおかなかった。猛然とかなえは、キヨの肉体に自分の肉体を重ねあわせていった。
キヨがうわずった声をあげだしたのは、数十人のレズを相手にしてつちかったかなえがもてるテクニックのすべてを駆使して彼女につくしたときのことだった。酔いのほうもさめてきたもようで、うっすらひらいたキヨのその目は、汗まみれになって励んでいるかなえをとらえた。
「あら、あなた……」
こみあげてくるものにまたひとしきり声をあげてからキヨは、乱れた髪をかきあげて顔をあげた。
「いい気持ちよ。うまいわ」
こんどは彼女のほうからおきあがってきて、かなえの体にふれてきた。かなえにはキヨが、おもったとおり、レズビアンだということが、じぶんの体をかきわける巧な指さばきひとつみても、まちがいないことを理解した。しかもじぶんのような即席でなくじつに堂にいった、この道一筋のレズだった。
二人はそれから、互いに相手を喜ばせることに力をそそぎつづけた。かなえの意識はキヨのみちびきによって何度もとぎれ、かなえもまたキヨの意識を、肉体からなんどもはじきとばした。
ふたりとももう、ふりしぼる力も底をつきはじめたころ、キヨのほうからおしりでキスしようといいだした。かなえはこころえて、体をうつむけると、尻を脚で支えあげ、おなじようにむこうで尻をもちあげているキヨのそれに、ぴったりおしつけた。それでも尻の穴までくっつけるのはなかなかで、二人はたがいに密着した尻と尻を、けんめいにおしつけあった。かろうじてふれあうほどになったとき、キヨの尻の穴から、ぬるぬるとなにかがとびだしてきた。
それはいっしゅん、ふくらんで、女の頭のようにみえたが――そしてそれがキヨそのものの顔立ちだったことをあとになってかなえは述懐した――すぐにこんどはかなえの尻の穴のなかに、ぬるぬるともぐりこんでいった。
かなえはじぶんの体内になにかがはいりこんでくるのを感じた。それはキョの手指でないことだけはわかったが、キヨのなにかであることにはちがいないとおもい、しだいに下腹部の奥深くに移動してくるのを、えもいえない快楽とともに感じていた。
キヨのあたまにその瞬間、何年もまえのできごとがよみがえった。
天才の名をほしいままにしていた女流ピアニストと、ホテルの一室ではじめてねたときのことだった。それまでのキヨは、今とちがい、いかにももっさりした容姿の、さえない女だった。かなえどうよう彼女もまた、たっぷり泥にまみれたジャガイモといえた。
コンサートの帰りに女流ピアニストがたちよった酒場に、キヨはくすぶっていた。工場仕事にくたくたになり、のまずにはいられず、毎日のように酒場に立ち寄る習慣になっていた。作家志望で、書き溜めたものをせっせと応募はしても、芳しくないけっかばかりがつづき、徹夜明けに工場にでかけたりして募りにつのったストレスは、酒で晴らすほかなかった。
酒場には男性客もいたが、キヨを相手にするようなものずきはひとりもなかった。キヨじしんはそんなこと、いつものことなのでおかまいなしに、平然と酒をのんでいた。そのとき、彼女が店にはいってきたのだ。
黒のコート姿の彼女は、ひとめみて、そこいらにいるような女性ではないことがわかった。やつれた表情はしているが、それが恋の悩みとか嫉妬とか、そんな下々の女のかかえるものとは異なりもっと精神的なものだということがキヨにはわかった。その時のキヨは、まだレズにはめざめていなかったが、なんとなく気になってその女性のそばにちかづいていった。
「あの、よかったら私のテーブルに――」
すべてのテーブルはつまっていて、男ばかりがつらなるカウンターにためらう彼女をみて、キヨは声をかけた。
「ありがとう」
彼女はよろこんでキヨのテーブルにやってきた。
キヨはそこで、彼女はアキコ・イヌワンという有名なピアニストでいましがた、コンサートをおえたその足でここにやってきたことをきかされた。
「これはおどろきですわ。まさかあなたのような方が、こんなむさくるしい酒場にくるなんて――」
その声がきこえて、カウンターのむこうからマスターがじろりとこちらをにらむのをキヨは無視した。
「わたしこういう雑然としたとこ、すきなの。コンサート会場につめかけるちょっとばかしハイプロウな人々は、苦手」
彼女はワインをのんだ。ボトルを二本目あけても、まだコンサートの興奮がおさまりきれずに、キヨにむかって、
「もしよかったら、これからつきあってもらえない」
「いいですよ」
明日工場には八時までにいかなければならなかったが、キヨには彼女の誘いのほうがはるかにずっと、大切におもえた。
ピアニストにつれられていったさきは、ホテルの一室だった。そして、ベッドの上――
「わたし、コンサートがおわると、いくらお酒をのんでもテンションがなかなかさがらなくて、あなたのような相手をもとめずにいられなくなるの」
キヨはすなおによろこんだ。じぶんなんかおよびもしない彼女とこうして、肌をよせあえるなんて、本当に夢のようだった。彼女のはげしい求めにおうじながらキヨは、コンサートのテンションのいかに高いかを身をもって感じた。そしてあれがおこった。
興奮の極みにたっしたふたりが、たがいに尻を密着させて、肛門のキスを行おうとしたとき、アキコのからだからなにかがとびだしてきた。それは白っぽいぬめぬめしたもので、見た目は幅ひろい布に似た。それは翻りながら真っすぐ、キヨの肛門をめがけてのびていった。その一瞬後キヨは、肛門内に潜り込んでくるものの圧迫感を意識した。
がそれはほんのつかのまのことで、一瞬後には彼女は、異常に意識がはっきりするのをおぼえた。周囲のなにもかもがありありとみえだし、ベッドのシーツのしわひとつ、イスに脱がれた二人の衣服の襞や柄、床にいびつにならぶ靴の形などが、これ以上ないというぐらい鮮明に目にやきついた。そのうえ、満々とした自信がこみあげてきて、今ならなにをやってもできそうな気がした。
ひとつ、おかしなことがあった。
じぶんのすべての細胞がポジティブ一色に塗りこまれているのにくらべ、ベッドによこたわるアキコの表情がみるからに頼りなげで、呆けたようになかばあけた口といい、うつろなまなざしといい、酒場でみたときのような凛とした、自信にあふれたアキコからは想像もつかないものだった。
「アキコ――」
よびかけるじぶんの声までが、芯の通った、ゆるぎのない響きをおびていることにキヨは気づいた。
いったいなにがおこったのか、そのときはなにもわからなかったかなえだが、時がたつにつれて、あのときアキコの肛門と自分の肛門がわずかに接触した瞬間、アキコからとびだしてきたものがじぶんのなかにはいりこんだことで、すべてが一変したことをさとった。
あのとき以来じぶんの能力が飛躍的に向上した。以前の、感情に左右されっぱなしの、愚鈍なじぶんは姿をけし、怜悧で、発想力ゆたかな感性にめざめたキヨは、その独自性をいかんなく発揮してそれまで思うように書けなかった小説が、うそのようにすらすらすすみ、作家の登竜門といわれる○○新人賞に応募すると選者全員の推薦で入賞した。
アキコからじぶんにはいりこんだものは、その人間がもっている能力を飛躍的に高めるとともに、その能力を発揮させるために必要な集中力や、これまでその人間を凡庸にさせていた世間体とか常識にとらわれていた精神を覚醒させた。たちまちキヨは時代の寵児となった。
キヨの名が人々のあいだにひろまるのとは逆に、アキコ・イヌワンのほうは目にみえて凋落していった。予定されていたコンサートが次々にとりやめになり、入場料の払い戻しに関係者がふりまわされるという事態がつづいた。彼女が教える教室の生徒の話では、ある時を境にして彼女のピアノが、まるで別人かとおもえるほどの甚だしい衰えぶりをみせだした。本人も、とてもこんな体たらくでステージになどあがれないとおもっての、キャンセルだったのだ。
キヨには、アキコの変貌の理由が、あの奇妙な生き物のせいだということに気づいていた。あの生き物は人から人に乗り移っては、乗り移った人間の才能を最大限引き上げる。しかしその人間からはなれるやいなや、その人間が開花させた才能は完全に萎れてしまうと同時に、精神構造も衰耗し、生活に支障が生じかねないまでの愚鈍な人間に後退してしまうのだった。現在のアキコ・イヌワンがほとんど廃人にちかいように。
そんな過去が去来した直後、キヨの意識は急に半濁した液体に包まれたようにぼうっとしてきて、あれだけ明晰そうにみえた表情もまた、湯にながいあいだ浸した大豆のように、とろんとふやけたようになっていた。
その彼女をみつめるかなえの目に凄みをおびた冷徹な光がやどった。
「いまからは、わたしがすべてをとりしきるわ。あなたはこれからは、わたしのしもべとして仕えるのよ。わかった?」
キヨはあいまいな面持ちのまま、かなえの勢いにおされてうなずいた。筋道たててかんがえるだけの、知性がすでに彼女から消えていた。
知性の消えた顔には、以前の泥にまみれたジャガイモがはやくも芽をのばしはじめていた。
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