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人造人間と西行法師の呪法

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平安から鎌倉時代初期。人間の骸を集めて、奇妙な呪法を使い人造人間を作り上げた西行という出家僧がいました。
いったいどんな法を使い、人造人間を作り上げたのか、西行法師(西行)という人物像を含めて紹介します。

目次

佐藤義清から西行へ

平安末期から鎌倉初期の動乱を生き抜いた西行〈1118-1190〉とは出家した後の名前です。もとは佐藤義清と言い、奥州藤原氏の出身で、祖父の代から京都で御所の警護に当たる(衛府)という任についています。
容姿端麗で和歌と武芸に秀でており将来を嘱望された若者でした。この時代には歌会が多く開催されていて、義清の和歌はとても高く評価されていました。また、走っている馬の上から弓を射る流鏑馬や蹴鞠もかなりの実力を持っていたそうです。
そんな、エリート街道まっしぐらな義清でしたが1140年、23歳の若さで突然出家して、以後は西行と名乗るようになります。この時義清には妻子がいました。

約束された将来や、妻子を捨ててまで出家した、その理由ははっきりとはしていませんが、説として有力なのが2つ。
まず1つ目は親友の死です。
「西行物語絵巻」という、鎌倉時代に西行の生涯を描いた絵巻物のなかには親しい友人の急死に衝撃を受け、衛府の任を辞したとあります。
もう一つが失恋説で「源平盛衰記」と言う源氏、平家の栄枯必衰を書いた物語本には、高貴な女性に恋をして逢瀬をおこなったが「あこぎ」と言われて失恋、それが原因で出家したと記されています。

妻子を捨ててまでと書きましたが実は、妻子の存在についても否定説と肯定説がありはっきりとはしていません。いずれにせよ、とても感受性の高い、繊細な人物だったように見受けられます。

西行となってからの足跡

 西行ほどのエリートなら、延暦寺などの大寺院に属すことも可能でしたがそれをせず、地位や名声も求めず、山里に庵を立て一人飄々と暮らしたり長旅に出たりしました。が、出家から9年後の1149年に高野山に入山。

1168年には弘法大使の遺跡巡礼を兼ねて、崇徳院の御霊を慰めるため四国への旅を行ない、その後、高野山にもどり修行を再開します。この時代は安倍晴明に見られるように陰陽道が朝廷に浸透したり、中国から密教が輸入され空海や最澄が活躍したりと、日本の宗教史の大きな転換期でもありました。

西行は密教を習いたかったのでしょうか。人造人間を造った時期も、この高野山時代なので、なんらかの術を身に着けていても別段、不思議ではありません。
高野山での生活もひと段落した1180年。かねてより憧れていた伊勢の国に移りすむのですが、その6年後の 1186年、平家によって焼き討ちされた東大寺再建を勧進するために奥州藤原氏の当主、藤原秀衡に直談判をしに陸奥にまで出かけていっています。

この時の西行は70歳になろうという年です。その年で伊勢から陸奥国までいけるなんて、かなり強靭な肉体と精神をもっていなければ出来ないことです。
道中、鎌倉で源頼朝と面会し、歌道や武道の話をし流鏑馬を指南したという西行らしいエピソードも「吾妻鏡」という鎌倉時代の歴史書には記されています。
とにかくエネルギッシュな人物だったことは間違いないようです。

岳亭春信, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由

歌人 西行

その後一旦は伊勢に戻りますが、河内国(大阪)にある弘川寺に移居しこの地で残りの生涯を暮らし、1190年に入寂しました。享年73。生前「顔はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」と詠み、その願い通りの最期であったと感動を呼び名声を博しました。

佐藤義清の時代に詠んだ和歌も評価されていましたが、出家して西行と名乗った後も、よく和歌を詠み、生涯で詠んだ和歌は2000首を超えています。それらは「詞花集」「千載集」「新古今和歌集」などに計265首がおさめられました。なかでも「新古今和歌集」には94首も入っていて入選数第1位となっています。
後世の歌人、宗祇や松尾芭蕉が彼をとても尊敬していたのは有名な話です。

人造人間

「撰集抄」という仏教説話集にはこう書かれています。
高野山の山中で西行が西住上人という僧と修行をしていた時の事。所用で西住が山を下りてしまい突然ポツンとひとりになってしまいました。孤独に悩まされた西行は話相手が欲しくなり、以前、鬼が人骨を集めて人間を作ったという方法を聞いていたので、これをまねて人造人間を作ってみよう。ということになりました。

西行はさっそく、死人の骨を集め、頭蓋骨から足の先までを順番にならべました。そのあと砒霜(ひそう)という秘薬を骨全体に塗り骨と骨の間を藤でつなぎ合わせて水洗いし、それからさらに14日の間放置し沈と香を焚き反魂の術をおこないました。

ところが、そうしてできあがった人造人間は失敗作。見た目は人ですが血色も悪く、声もか細く、心ここにあらずの状態だったそうです。一応は人間の形をしているので壊すこともできず、仕方なく山奥に捨ててしまったそうです。

なぜ、失敗してしまったのか納得のいかない西行は下山してからの後、人造人間を作ることが可能な人物として噂があった伏見前中納言師仲卿(源 師仲。源平の争いの際、三種の神器のうちの1つ八咫鏡を守ったといわれる人物)を訪ね、なぜ失敗したのかをたずねます。
師仲曰く、この術をおこなうにはまだまだ修行不足であること、香を焚くのは間違いで正しくは沈と乳を焚くこと、術を行う時は7日間の断食をして身を清めなければならない等、手ほどきをしてくれました。

かなり詳しく手ほどきしてもらった西行でしたが、それだけで満足してしまったのか、これ以降は人造人間を作ることはしませんでした。

西行

平安時代から鎌倉にかけては、日本に魑魅魍魎の類が跋扈した時代でもあります。有名な酒呑童子が暴れたのも、崇徳院の怨霊が朝廷を騒がせたのもこの時代です。

西行ほどの人物なら、怨霊退治の術の1つや2つ、習得していても不思議はないとおもいますし人造人間を造り続けていれば、式神のように操ることもでき安倍晴明のようになれたと思うのですが、欲がなかったのでしょうか?
とても面白い人物です。

featured image:MOA美術館, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由

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