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「大空のサムライ」太平洋戦争のエースパイロット「坂井三郎」の伝説

大日本帝国海軍の撃墜王と言えば「零戦虎徹」を自認した岩本徹造、「空戦の神様」と呼ばれた杉田庄一、「ラバウルの魔王」の異名を戦後に送られた西澤廣義など、多くの戦闘機乗りの名前が知られている。こうした撃墜王の中でも著作である「大空のサムライ」が出版のみならず映画化もされ、また本人が平成の世まで生き延びて長寿を全うした事から、坂井三郎の名を耳にした方も多数に上ると思われる。

自称を含む撃墜数は岩本徹造の202機、杉田庄一の120機、西澤廣義の86機と比較すれば、坂井三郎の64機は少ないようにも思え、また軍によって公式に認定されたそれは28機と凡そ半数以下にまで下がる。それでも軍が認めた28機が実態であったとしても、その数は紛れもなく撃墜王と呼ぶに相当する戦果であり、大日本帝国海軍の戦闘機乗りとして一時代を築いた人物であった事は間違いない。

しかし坂井三郎の名がが巷間に伝わっているのは、旺盛な自己顕示欲が著作物等で示された事や、戦後の本人のある意味スキャンダラスな行動が大きく作用したものだとも言えるだろう。

目次

坂井三郎が戦闘機乗りとなった経緯

1916年に佐賀県の農家の三男として生を受けた坂井三郎は12歳の時に父親を病気で失い、同郷の操縦士が飛行させる海軍の飛行艇を見てそのスピードに魅せられ、海軍少年航空兵を目指すも2度も不合格となる。それでも飛行機への憧れを捨てきれなかった坂井三郎は、1933年に通常の海兵として海軍に入り、戦艦霧島や榛名に乗艦して砲手を務め、上官の理解を得て操縦練習生の試験に合格、搭乗者の道へと進んだ。

1937年に晴れて霞ヶ浦航空隊に入隊した坂井三郎は、操縦・射撃ともに実技は巧みではなかったが座学では優秀だった事もあり、同期の練習生での首席となり見事戦闘機乗りとなる希望を叶える事となった。

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中国・支那事変での初陣

1937年に勃発した支那事変によって坂井三郎もこれに従軍する事となり、1938年9月に第十二航空隊に所属する戦闘機乗りとして中国大陸に渡り、翌10月の漢口空襲を初陣に九六式艦上戦闘機に搭乗して出撃した。この初陣で坂井三郎は敵である中華民国軍のI-16戦闘機を1機を撃墜する戦果を早々に挙げ、以後翌年の1940年5月まで中国各地を転戦、戦闘機乗りとしての技量を積み重ね、同年6月に一旦日本へと戻される。

日本で坂井三郎は配備が開始され始めた新型の零式艦上戦闘機の講習を受けると、1940年10月に名古屋で同機を受け取り、そのまま次の任地である台湾の高雄基地に移送を兼ねて着任し愛機とした。以後坂井三郎は現在の中国の海南島、現在のベトナムのハノイへの進出の後、1941年4月には再び中国大陸に渡り、零式艦上戦闘機で8月11日の出撃時に中華民国国軍のI-15戦闘機を1機撃墜、同機による初戦果を挙げる。

傍から見れば坂井三郎は着実に九六式艦上戦闘機、そして零式艦上戦闘機での撃墜スコアを積み重ねたように感じられるが、自身では支那事変の会敵回数は決して多くなかったと後年に語っている。

太平洋戦争開戦後の坂井三郎

坂井三郎は1941年10月には台湾の台南航空隊に配属されると、その部隊で同年12月の太平洋戦争開戦を迎え、アメリカ軍のフィリピンのクラーク空軍基地への爆撃作戦に護衛の戦闘機の一小隊長として出撃する。ここで坂井三郎は初めてアメリカ軍と対峙する事となったが、その相手はアメリア陸軍所属のP-40戦闘機であり、得意とした一撃離脱戦法で同機を大破させ、見事にこの初戦で戦果を挙げた。

太平洋戦争開戦の2日目にあたる1941年12月10日、日本軍はアメリカのB-17フライングフォートレス重爆撃機を撃墜する戦果を挙げたが、戦後に坂井三郎はこれを行ったのは自分であると主張している。しかし彼が所属する台南航空隊では撃墜を行ったのは他の5名の共同であるとの記録が残されており、坂井三郎自身がこの空戦に参加したと言う公的な証拠はなく、自己顕示欲の強さが感じられる逸話のひとつと言える。

但しその後の日本側の公式な記録には、坂井三郎がB-17フライングフォートレス重爆撃機を複数回に渡って共同撃墜や大破させた事実が残されており、大戦初期の攻勢期には少なからぬ戦果を挙げている。

B-17フライングフォートレス
Chris EngelによるPixabayからの画像

最も坂井三郎が自己を美化したとされる最大の逸話

坂井三郎を語る上で最も有名な逸話とされているのは、1942年2月に現インドネシアのジャワ島から日本軍の侵攻を受けて退避しようとしていたオランダ軍の輸送機を、民間人が搭乗していた為に見逃したとするエピソードだ。この時日本軍は全ての敵機を撃墜する命令を下していたが、坂井三郎は遭遇したオランダ軍の輸送機に対し重要人物が搭乗している可能性を考慮し、自己の判断で同機を強制着陸させようと企てたと主張している。

そのためオランダ軍の輸送機を攻撃せずに操縦者にその旨を分からせようと接近した坂井三郎は、同機の搭乗者に民間人の母子がいる事を視認し、気の毒に思ってそのまま見失ったと虚偽の報告をして見逃したと言う。これが坂井三郎の言う通り事実であれば、戦場においても惻隠の情を失わぬ人格者と言える訳だが、日本軍の記録にはそのような内容は一切確認されておらず、自己申告の域を出ないものと言わざるを得ない。

重症を負いながらも戦局の悪化で再び戦闘機に搭乗

その後、坂井三郎の所属する台南航空隊は1942年4月にはアメリカ軍とオーストラリア軍の連携を断ち切る為、ビスマルク諸島のニューブリテン島・ラバウルへと前進、ポートモレスビー攻略を企図する事になる。

1942年8月、ガダルカナル島上空でアメリカ海軍のF4Fワイルドキャット戦闘機と空戦を行った坂井三郎は、僚機と合同でこれを撃墜、その帰路で自身の判断ミスにより大怪我を負う事となった。これはアメリカ軍のSBDドーントレス艦上爆撃機の編隊をF4Fワイルドキャット戦闘機のそれと見間違い、不用意に戦闘機の死角だと思いこんで接近したところをSBDドーントレス艦上爆撃機の機銃掃射を受けたものだった。

これにより坂井三郎は頭部を挫傷する重傷を負いながらも辛くも撃墜は免れ、重傷を押して何とかラバウルまで飛行、燃料切れ寸前のタイミングで決死の着陸を成功させ、日本内地へと送還され一命を取り留めた。
坂井三郎はこの時の怪我で右目はほとんど見えなくなり左目の視力も著しく低下、以後は大村航空隊の飛行教官を務めるも、1944年4月に戦局の悪化を受けて横須賀航空隊に呼ばれ、味方の戦意高揚の狙いもあり再び戦闘機乗りとなる。

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戦後には著作のヒットとマルチ商法への関与で知名度アップ

坂井三郎は1994年6月には硫黄島周辺の戦いに加わるも生還、同年8月には少尉に任官して剣部隊の異名で知られる第三四三海軍航空隊の所属となり、局地戦闘機として有名な紫電改で後輩への指導を担った。そのまま日本は同月8月15日にポツダム宣言を受諾して敗戦を迎えた為、坂井三郎も軍人・戦闘機乗りとしての務めを終え、知り合いと共に印刷関係の会社の経営に携わるなど市井の一市民となったかに思えた。

しかし戦闘機乗りとしての経験を綴つた書籍が海外で好評を博した事から、その逆輸入盤とも言うべき「大空のサムライ」が日本でもヒット、これは後に問題となる団体の資金提供を受けて映画化もされ知名度を上げた。
その問題となる団体とは坂井三郎のかつて部下であった人物が始めた「天下一家の会」であり、これは今の所謂マルチ商法の先駆けであり、多くの被害者を出した事から坂井三郎自身の道義的責任も大きく問われる事になった。

どちらかと言えば坂井三郎への批判的言説が多い理由

坂井三郎に対する後世の人物評価と言う部分では、肯定的な意見よりも否定的な意見の方が多く目につくように思えるが、やはりこれは「天下一家の会」なる怪しげな団体に関与してマルチ商法を結果的に広めた事が大きいと言えそうだ。

そうした醜聞と並行して坂井三郎が自らの武勇伝を著作物等で流布した事が、実際に同じく軍務に従事した人物たちから快く思われなかった点は否定できず、虚飾に満ちた撃墜王として今後も語り継がれて行くのだろう。

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