知略と謀略、生き抜く能力、受け継がれた不屈の魂、真田幸隆。

  • 2020-10-23
  • 2020-10-22
  • 戦史
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武田信玄の傍らに仕え、真田幸隆ほど謀才をもって名を高めた武将はいません。
信州先方衆、軍師として攻略の策謀を巡らし東信濃と西上野を制圧、その抜群の戦功から譜代並みの処遇を受け、信玄に最も可愛いがられました。
そんな幸隆にも一時、辛酸をなめた時代がありました。

真田氏は東信濃の古族、滋野系海野氏の一族で小県郡の一握りほどの真田郷に発祥、松尾城を拠点にした小豪族です。

天文10年(1541年)5月、幸隆は葛尾城を居城とする北信濃の村上義清と諏訪頼重、甲斐の武田信虎の連合軍に海野平の合戦で主家と共ども敗れ、鳥居峠を越えて妻の実家、上野の羽尾城主の羽尾入道幸全を頼って落ち、さらに箕輪城の長野業政に庇護を求めました。

その頃、甲斐では武田晴信(信玄)が父信虎を駿河へ追い落とし自立、幸隆は亡命地の箕輪城にあって、信玄の諏訪侵攻戦や長窪城攻略、伊那攻めなどの果敢な采配ぶりを知り、一族の仇敵ではあったが、独り信玄への出仕を決断しました。
業政は幸隆の本心を見抜き「胸に巣くう出奔の病は余地峠を越え甲斐に良薬を求め治されよ」と幸隆を送りだします。

幸隆が信玄に仕えた明確な年月や手段は不明ですが、ただ諏訪御料人が信玄の側室となった時、御料人の里親となった一族の祢津氏の縁故を頼ったとするのが、有力視されています。また出仕は、信玄が天文16年(1547年)8月、上野の上杉憲政と小田井原(長野県御代田町)で合戦に及び勝利した時、この合戦に幸隆が参戦していることから、これ以前の天文15年(1546年)頃と見られます。

ともかく滋野氏は平安後期に小県郡に住み海野氏を称して本家となり、やがて祢津氏と望月氏の三家に分かれ、さらに分岐し幸隆の同族は信濃各地に分散、さらに同族は西上野吾妻地方にも住み着き、羽尾・海野・鎌原・西窪・湯本など有力な各氏を生みました。
このように信濃の各地や吾妻地方に同族の地縁や人脈を多く持つ幸隆こそ、東信濃と西上野の制圧をもくろむ信玄にとって、まさに打ってつけの人物でした。

信玄に仕えてまもなく、幸隆は海野家の家臣、春原若狭兄弟を使って村上義清方の将兵を欺き、ことごとく討ち取りました。
こうした手柄話が信憑性の薄い「甲陽軍鑑」に見られますが、いかに幸隆が権謀術策の武将とはいえ、そこまで卑劣ではないでしょう。

もとより信玄が幸隆に期待したのは、信州先方衆、軍師として地縁・人脈を頼りに対抗勢力、特に村上方将兵の懐柔工作にあったためです。
天文17年(1548年)2月、信玄は上田原合戦で義清に敗れます。

この合戦の時、幸隆は謀才を発揮するどころか、先陣の板垣信方の右脇備えに甘んじていました。ですが、天文18年3月、「高白斎記」によれば、幸隆の説得に応じ、望月三郎が信玄に出仕して七百貫文の所領を安堵されると、5月には望月新六が降り、望月一族が信玄に帰属、さらに6月には佐久郡野沢郷の伴野左衛門が出仕するなど幸隆の調略が効果をあげ始めます。

天文19年(1550年)8月、信玄は村上義清の支城、戸石城上野に出陣、攻略の成否は幸隆の調略に負うところが大きいのです。
そのため信玄は幸隆に、攻略の折には「諏訪形三百貫文並びに横田遺跡上条、都合千貫文」という法外な知行宛がいを行っています。

戸石城包囲中の9月1日、埴科郡の清野一族が信玄に同心、攻撃開始後の19日、高井郡の須田新左衛門が恭順、幸隆による調略の成果ですが、まだ時機尚早でした。1ヶ月以上も攻めあぐねているうちに義清と敵対していた北信濃の髙梨政頼が義清と和を結び、戸石城に後詰めの軍を出陣、戦況は極めて悪く、物見から帰陣した幸隆の進言を聞き入れた信玄は撤退、殿軍は義清の激しい追撃をこうむり、これを世にいう「戸石崩れ」です。

ところが翌20年5月、幸隆は独力で戸石城を攻略、「高白斎記」は「戸石城真田乗っ取る」とあっさり記しています。
この乗っ取りは幸隆の城兵懐柔工作が実っての落城を意味し、幸隆の功績が大きいのです。何より真田郷の失地回復したばかりか、一躍智将として名を上げ、武田家での武将として確かな地位を確保しました。

天文22年(1553年)信玄は村上義清の拠点、葛尾城を攻めます。

戸石城を失った義清に、もはや勝算はなく4月9日、義清は越後の上杉謙信を頼って落ち、居城を放棄、合戦を前に信玄に寝返る武将が相次ぎ、それも幸隆の調略によるものが大きいです。8月10日、信玄は幸隆に「秋和三百五十貫文」を与え、幸隆が謀才で得た堂々たる恩賞です。
東信濃を制圧した信玄は次に上野吾妻郡の岩櫃城に侵攻の触手を伸ばします。
攻略を任されたのは、むろん幸隆で幸隆は永禄4年から攻略にとりかかり、永禄6年9月、嫡子信綱、次弟矢沢頼綱、地侍の鎌原幸重ら3000余騎の軍勢で岩櫃城に襲いかかり包囲しました。

とはいえ正攻法な攻撃をすることはありません。長野原の修験者、別当大学坊と雲林寺の僧を使者に立て、城主の斎藤憲広ゆかりの善導寺住職を仲介にして和睦をすすめ、これも幸隆の策略で、さらにもう一策、鎌原に秘策を授け、城主憲広の甥の斎藤則実に本領安堵を条件に内応を囁かせ、裏切らせます。加えて憲広の重臣の海野幸光・輝幸兄弟に同族の誼みを口実に近づき口説き落とし、まんまと味方に引き入れてしまいます。

こういう調略戦が、いかにも幸隆らしいところです。
重臣や甥に裏切られた憲広はあっけなく敗れ、謙信を頼り越後へ落ち、岩櫃城は10月13日夜半に落城、憲広の末子の城虎丸の守る嵩山城も、重臣の池田重安を「山田郷百五十貫文」の恩賞で言葉巧みに寝返らせます。

11月11日、激戦の末に岩櫃城を落城、これ以降、幸隆は信玄から岩櫃城を預けられ吾妻地方の経営に着手します。信玄は永禄9年(1566年)9月、箕輪城を攻略、幸隆を在番させます。次いで永禄10年3月、幸隆は謙信の属城の白井城を黒鍬隊という道路開削隊を先行させて攻略、信玄が幸隆に与えた感状には「一徳斎(幸隆)計策ゆえ、白井不日に落居大慶に候」と記し、幸隆の見事な計策を称賛しています。

信州先方衆として智略を尽くして戦功を重ね一徳斎と称した幸隆は、信玄の病没後の翌天正2年(1574年)5月19日、岩櫃城で62歳の生涯に幕を閉じています。

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