井伊氏の天敵ともいうべき今川氏、もう1つの三方原の戦い。

  • 2021-02-04
  • 2021-01-31
  • 戦史
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井伊氏は平安時代の終わりから鎌倉時代にかけて、遠江国で抜きん出た力をもっていた武士でした。
井伊氏は赤佐(あかさ)郷(浜松市浜北区)に進出、赤佐井伊氏、山名郡貫名(ぬきな)郷(袋井市広岡)の地をもらって貫名井伊家の分家が誕生、さらに田中氏、井平氏、石岡氏といった分家が地名を苗字にして生まれ、井伊谷周辺を支配するようになり、遠江国で井伊氏は大きな力をもつようになります。

南北朝時代、井伊家に今川氏との確執が生じ、それは戦国時代に今川氏が滅びるまで延々と井伊家を苦しめ、ひいては女城主・井伊直虎を誕生させる結果にいたります。南北朝の戦いの発端は後醍醐天皇が北条氏の鎌倉幕府を倒して、建武の新政を実現したことにはじまり、建武の新政は建武の中興とも呼ばれ、大化の改新、明治維新とともに天皇親政における日本史三大改革の1つです。

後醍醐天皇は倒幕を計画(正中(しょうちゅう)の変、元弘(げんこう)の変)しますが、味方の密告で2度とも失敗、元弘2年(1332年)には隠岐に配流されてしまいます。天皇の意志を継いだ皇子の護良(もりよし)親王が吉野で、また楠木正成が河内千早城で再挙兵、これに足利尊氏、新田義貞が幕府に反逆、鎌倉幕府を倒したことによって建武の新政は実現しました。

そして後醍醐天皇は「延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の治かえる」という願い通りに、天皇独裁体制をはじめるのです。
延喜・天暦の治は延喜が醍醐天皇時代、天暦が村上天皇時代の年号で、このとき摂政・関白を置かずに天皇自らが政治を行い、文化も繁栄して「理想の聖代」と後世に喧伝され、憧れとなっていました。

後醍醐天皇はその理想の聖代を復活、元弘3年(1333年)5月から約2年間は強い統率力を発揮し、公武協調をめざして親政を維持しました。
ですが前列を無視した独裁は、権力を剥奪された貴族の不満を買い、農民は皇居造営などにより税負担が重くなり不満がつのり、そして土地の所有をめぐっては貴族の権利を擁護したため、武士は所領を取られ天皇に失望、武士階級に幕府政治への回復を望む声が広がります。

建武2年(1335年)7月、滅亡した鎌倉幕府弟14代執権である北条高時の遺児・時行が、幕府再興を企てて信濃で挙兵、進軍して鎌倉を占拠「中先代の乱」が起きました。
鎮圧に向かった足利尊氏は、乱を平定したのちも鎌倉に留まり、後醍醐天皇の机京を促す呼びかけに応じず、武家の棟梁を求める武士の要請に応えるように、ついに天皇と袂を分かつ決意しめします。

翌年、尊氏は武士が奪われた土地の返付令を出し、京に攻め込みますが、1度は敗れて九州まで逃げ、再起をかけて京に攻め上り、途中、楠木正成を湊川で撃ち破り、後醍醐天皇方は圧倒され続け、天皇は2度比叡山に逃げます。

尊氏は後醍醐天皇方を圧倒していましたが、天皇を倒すことで起こる反発を怖れ、朝敵と呼ばれないためにどうしても錦の御旗がどうしても欲しくなります。光厳上皇の院宣を得て、足利軍が朝敵ではない正統な軍であることを知らしめ、後醍醐天皇をついに屈服、尊氏は光厳上皇の弟・豊仁親王を皇位につけ、光明天皇を誕生させ、延元元年(建武・3年・1336年)11月、後醍醐天皇は光明天皇に神器を渡して翌月、吉野に潜入します。

後醍醐天皇は「光明天皇に渡した神器は偽物で本物は手元にある。だから自分こそが正統な天皇で、光明天皇は偽りの天皇である」と主張、京に光明天皇の北朝、吉野に後醍醐天皇の南朝が成立することになります。
こうして紀伊半島のど真ん中、険しい天険の地、吉野に南朝政権を後醍醐天皇は打ち立てました。

後醍醐天皇には実に多くの皇子がいて、なんと19人、幼い皇子は別にして、その内の宗良親王は井伊谷に入り、遠江一円の南支配を目論みます。
当時、気賀庄は南朝方の荘園や御厨(天皇など皇族の飲食物を調達する所領)が多く、後醍醐天皇は井伊谷を倒幕運動の南朝の核にしようとして、宗良親王を送りこんだのです。

井伊家弟12代の道政は宗良親王を歓迎しました。
一方、足利尊氏はこの年の8月、征夷大将軍となり、京に室町幕府を開いたばかりでしたが、遠江が南朝の拠点となっては困ると、後醍醐天皇より素早く足利一族の今川範国を遠江守護として送りこみます。
今川氏は足利氏から分かれた名門、しかもこの範国は武勇に優れた武将、遠江守護として尊氏の命のもと、遠江に張り付き、南朝方の掃討の先頭に立ち北朝軍を指揮します。

範国が井伊家の井伊谷を攻めたのは、宗良親王が井伊谷に入る1ヶ月ほど前、建武4年(延元2年・1337年)7月でした。
範国が山城国の御家人・松井八郎助宗に与えた軍忠状があります。

建武4年7月5日にしたためられた文書は「今月四日、遠江国井伊谷城前の三方原において、御合戦で忠節を致し、御前先駆けし御敵頸を取られる、頸は井伊一族云々。その外兇徒両人切落としおわんぬ」と助宗が報告、これに範国が「見知了(見知った)」と認め、範国の花押を押したものです。
当時の戦いを示す軍忠状として、もう1通、遠江国御家人・三和次郎右衛門尉光継の申し立てがあります。

「今月四日、三方原御合戦の間、光継先駆け入懸け数多御敵中にて、身命を捨て散々に戦い兇徒の輩を切捨てる」とあり、これに「承了」、つまり承知したと書いて、ここにも範国の花押が押されています。

2人はのちに範国から恩賞をもらい、松井助宗は葉梨庄(静岡県藤枝市)の地頭代職、三和光継には先祖の遺領を宛がっています。
この2つの文書は三方原において、範国の軍と井伊家の軍が衝突したことを物語ります。そこで山城国から来ていた御家人松井助宗が、とくに井伊家一族の誰かを討ち取ったことが記され、この三方原の戦いこそ、これ以降、幾多にわたる井伊家と今川家の戦いのはじまりとなります。
三方原の戦いで井伊家は押され井伊谷に攻め込まれ、井伊城もしくは井ノ城は井伊家の本城で、標高467mの三岳城で、ここに井伊氏は籠城して範国の軍を迎え撃ったが、その詳細は不明、決着がつかぬまま範国は軍を引いたようです。

範国が撤退してまもなく遠江を南朝の拠点にすべく、宗良親王が伊勢一之瀬を離れ井伊谷に入ったようです。
戦国時代に入る以前、南北朝時代に井伊家と今川家の因縁がはじまり、大河ドラマの主人公として放送された女城主・井伊直虎の時代へと井伊家と今川家の因縁、確執、井伊家にとっては今川家は天敵ともいえる因縁のはじまりは南北朝時代にあったようです。

※画像はイメージです。

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