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浅田次郎氏の著書「シェエラザード」を読んだ

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太平洋戦争末期、誰にも知られず、そして戦後そのまま忘れ去られようとしていた海難事故がありました。
『阿波丸事件』と呼ばれるそれは、1945年4月1日に起こった、まさにタイタニック号さながらの悲惨な“事件”だったのです。

この船と事件には多くの謎がありました。
浅田次郎氏は、この事件を紐解き、題材として本作「シェエラザード」を上梓しました。

『戦時国際法』も絡む、ミステリアスな物語の裏側には当時を懸命に生きた人々の姿、真摯な想い、そして陰謀があり、それをフィクションとして再構築したのです。
新聞連載が1996年~97年、書籍が出版されたのが99年。
NHKでドラマ『シェエラザード~海底に眠る永遠の愛~』が制作・放送されたのが2004年でした。

約四半世紀前。
終戦から半世紀を超えて、この頃は、戦争経験者が最後に様々な記録を残してくれた時期でもありました。

目次

弥勒丸という船

20世紀が終わるころの東京。
銀行マンから身を持ち崩してヤクザの企業舎弟である街金を営む男・軽部がとある人物に呼び出されました。
高級ホテルで待っていたのは“宋英明”と名乗る台湾の重鎮です。

彼の要求は、100億の融資。
得体のしれないその要求は、戦時中に米軍によって沈められた『弥勒丸』という船のサルベージのためだ、というのです。
軽部は、新聞社に勤めていたかつての恋人・久光律子を頼りました。

彼女はあっという間に必要な情報をかき集めて提供し、自分をパートナーにすることを軽部に申し出ました。
調べていくにつれて、律子はその弥勒丸と、不可思議な沈没事故、そしてその周囲に浮かび上がる様々な謎に、まるで魅せられるようにのめりこんで行くのです。

ナホトカからシンガポールへ

昭和20年3月。
緑色の船体に鮮やかな白い十字がペイントされた民間徴用船・弥勒丸はソビエト連邦のナホトカの軍港に停泊し、連合国側の捕虜のための物資を積み込んでいました。
日米両政府の合意に基づき、“安導権”を与えられたこの弥勒丸は攻撃や臨検がされないことを保証され、南方へとその物資を運ぶことを命じられていたのです。
運行を担っていたのは帝国郵船であり、船長もクルーも全て軍属として船ごと徴用されていたものでしたが。
今回の任務に際し、海軍から正木中尉、そして陸軍からは大本営参謀の堀少佐が送り込まれていたのです。

これまでは病院船として使われていたというその船は、もともとはサンフランシスコ航路に就航する予定で建造されていたため、当初の予定通りの豪奢な一等船室や贅沢な作りの娯楽室などもそのまま残されていたのです。
ふとしたことから、捕虜向けの物資の中にタネイタ=レコード板が見つかりました。
弥勒丸の娯楽室にあった蓄音機の存在を思い出したパン焼き職人の中島は、堀少佐にその旨を伝えると、彼はその箱を娯楽室に搬入するように、と命じたのです。

彼女の力

律子は、軽部との再会と弥勒丸の話に運命的なものを感じ、思い切って新聞社を辞めました。
死ぬほど働いてきたから、食べるに困らないだけの蓄えはある、ということ。
そしてこのまま同じことを続けることに意義を見出せずにいた・・・ちょうどそんな時期に差し掛かっていた律子の背中を、弥勒丸と軽部は押してしまったのです。
しかし、そのキャリアは確実に戦力になるものでした。
宋英明が弥勒丸の引き揚げに関して協力を打診した者の中に、旧日本陸軍の大本営参謀として終戦を迎え、シベリア抑留の後に商社に勤務し、社長・会長へと上り詰めた篠田郁磨という人物の名前がありました。
律子は仕事で彼に面識があったのです。

弥勒丸について、話を聞きたい、と申し入れると、篠田から即答がありました。
彼女はためらわず、翌朝篠田邸を訪れたのです。
篠田は「あなたをお招きしたのは、至極個人的な興味からです」と前置きし、記事にするのであれば話せない、とも言いました。
律子は退職した旨を伝え、弥勒丸という船を引き上げたいのだと話しました。

篠田は戦中に陸軍の大本営で船舶課に在籍し、徴用船を管理運用する任務に当たっていたのです。
まさに、律子が求める弥勒丸の情報を当時目の当たりにしていた人物でした。
その当時の記録は終戦を目前にすべて焼却されてしまい、残ってはいません。

彼は弥勒丸に乗船していた同僚の堀少佐にその弥勒丸の安全航行権は本当に保障されているのか、と尋ねたのだ、というのです。
堀少佐は、弥勒丸とともに海に沈み、亡くなってしまいました。
篠田は、堀の言葉の中に、弥勒丸のクルーはベテランぞろいであること、そしてその運航に際して正木という海軍士官を同乗させる、という話を聞いていたのでした。

しかし、あの事件は起きてしまった。
そして弥勒丸の運行に関わっていた大本営の船舶課の者たちはみな事件後に満州へと送られ、篠田はシベリア抑留の辛酸を味わうこととなったのです。
彼は、誠実な人柄そのままに、記憶していることをすべて律子に話してくれました。
そして律子の予想を超える話をしてくれたのです。

昭和40年代の終わりごろ、彼の元に一度、弥勒丸にまつわる話が持ち込まれた、というのです。
台湾政府の特使から、もたらされたその報は、台湾の領海内に沈んでいる弥勒丸を、米海軍がサルベージしようとしている、というものでした。
しかし、その特使は「中国人は儀を重んじる。弥勒丸を沈めた米海軍にこの仕事をゆだねるべきではない」と熱心に語ったのだそうです。
その特使の名は___宋英明。
四半世紀を超えて、運命の糸がつながった瞬間でした。

繋がる時間

軽部には共同経営者がいました。
日比野というその男は、銀行を辞めたばかりの軽部を自分の会社に引き入れたのです。
二人の背後にいた山岸修造は、日本で一大勢力を率いるドンとして恐れられている重鎮でした。
彼の元にも、宋英明の情報が入り、日比野と軽部は呼び出されて事情を聴かれたのです。
100億という融資の申し入れ、そして引き揚げのための技術。

弥勒丸に辿り着くにはとてつもなく大きな障害が横たわっていることを実感していました。
その頃、律子は弥勒丸のただ一人の生存者の元を訪れていました。
帝国郵船の社員で、パン焼き職人であった中島吾市です。
彼は今なお現役でパン屋を営んでいました。

もともとは横浜のホテルニューグランドで修行したという一流のパン職人だったのです。
あの時代、サンフランシスコ航路でアメリカまで行ける仕事など、滅多にありません。
彼はその仕事に矜持をもって生きてきたのです。
中島は弥勒丸について、今も目の前にあるような生々しさをもって律子に語りました。
軍に接収されながらも、ダイニングもラウンジも、本来の客船の仕様そのままに美しい姿をとどめていたのだと。

再会

その家は、海運の帝王と呼ばれる実力者にしては慎ましいものでした。
軽部と日比野が呼ばれたのは、全国船舶連合会の小笠原会長の私邸です。
そこには山岸と篠田がすでに彼らを待っていました。
篠田は、自分たち三人が顔を合わせたこと、それこそが宋英明の希望だったのだと言います。
老人たちは、戦後の焼け跡で志を一つにした義兄弟だったのだと語りました。

小笠原は、かつてシンガポールで自らの名を冠した“小笠原機関”という組織を任されていたのだというのです。
彼は、一高・帝大、そして内務省へと、まさに生え抜きのエリート官僚として国のために働いていました。
彼は、軽部たちの世代には想像もつかない経験を語ってくれたのです。

昭和16年の夏。
日本には、内閣総力戦研究所という機関が設けられ、今後起こるであろう日米の戦争をシミュレーションしていた、というのです。
そして「敗戦は必至」という結論に至ったものの、その結果は捻じ曲げられ、抑え込まれてしまった___その後日本が辿った運命は、予想されたとおりのものであった、と。
小笠原はまさにその中心人物だったのです。

しかし、押し切られて戦端が開かれ、有能な彼は特務機関を率いて南方…占領地や作戦区域へと出向き、暗躍していたのでした。
そして流れ着いたシンガポールで、出会ったのが弥勒丸という船です。
安導権を授けられ、臨検も攻撃もされない、というその特別な船に、陸軍が託そうとしていたもの…それは、南方軍にはすでに使い道がなくなった、想像を絶する量の金塊だった…というのです。

小笠原機関

昭和20年のシンガポール。
当時は昭南島と呼ばれ、日本の占領下にありながら、雑多な人種が入り混じり、かつての英国植民地時代の風情が色濃く残っていたその街に、小笠原と、そして日銀から徴用された土屋という青年がいました。

俄かに軍人としての階級と、制服を与えられた彼らはそれが馴染まないままに現地での任務に慌ただしくとりかかっていたのです。
彼らは、弥勒丸を迎え、そこに積み込んで内地に送り出す南方の軍資金、価値の確かなプラチナや金の延べ棒を準備していました。
華僑や現地の会社などに、軍票という空手形と引き換えに供出させたものを蓄積し、安導権を保障された船の到来を、彼らは待っていたのです。

日曜の朝に

律子はその日曜日の朝、弥勒丸の客室にいる夢を見ました。
軽部と日比野は小笠原邸に向かうはず。
彼女はもう会社を辞めたことで時間に縛られない久々の自由を味わっていました。
モーニングでも食べようか、と、数寄屋橋の交差点までタクシーで向かうと、救世軍の社会鍋と、古びたトランペットを吹く制服の老人、そして寄り添う初老の女を見かけました。
ふと興味を惹かれて、話しかけると、彼らはキリスト教の一派であり、こうして路上で寄付を募ることを務めとしていたのです。
当時はまだ阪神の震災から間もない頃でした。

彼らはこうして路上に立つことを“野戦”と呼び、まるで自らに鞭打つようにそこに居たのです。
老人は、土屋と名乗りました。
彼は「私の戦には、終わりが無いから」と切実な言葉を吐いたのです。
二人は夫婦でした。
夫人に誘われて、律子は彼らの教会に立ち寄ることに。

深川にあるその小さな施設には、子供たちのための孤児院がありました。
粗末な建物の玄関先にあった看板を見て、律子は立ちすくんだのです。
“日本救世軍深川小隊”…そして“弥勒園”___。

全くの偶然で巡り合ったはずの土屋老人は、小笠原機関の関係者であり、弥勒丸に乗るはずだった、というのです。
律子はその話を聞き、思いました。
“これはたしかに、神の力だ”、と。

ソフィアの丘の女

昭南島(シンガポール)に赴任して4年。
土屋はその日、ソフィアの丘にある救世軍所何本営に一人の女性を訪ねました。
許嫁の島崎百合子です。
白いドレスで現れた彼女は、看護婦となり、病院船に乗り組んでシンガポールまでやってきた、というのです。

医師の娘だった彼女は、日本を絶つ直前に東京の空襲でその父を亡くし、彼に背を押されるようにして土屋のいるこの街まで来たのです。
様々な民族が入り混じるこの街でも、混血の子供は迫害があり、彼女は幼い子供たちを守り、暮らしていました。
土屋は、弥勒丸に百合子と子供たちを乗せて、戦況が芳しくないシンガポールから内地に、いち早く戻そうと試みたのです。

運命

現代___土屋が語り終えた頃、そこに日比野がやってきました。
彼は、父に死なれ、母に捨てられた孤児で、この弥勒園に預けられた子供でした。
それが、大学まで進み、そして陸上自衛隊で幹部として任官するまでになった…この場所から巣立った中では出世頭であった、というのです。
彼も律子がここに居ることに驚き、そして小笠原の屋敷で聞いた話に怖くなり、確かめに来た、というのです。

これは、イエスがもたらした奇跡。
そして土屋の脳裏には、はるかに半世紀を超えて輝くばかりの弥勒丸が蘇るのです。

選ばれた者たち

弥勒丸には、昭南島に残っていた日本人たち居留民を内地に安全に送り返す、という任務がありました。
そこに軍の横槍で“戦費”として蓄えられた貴金属や資源を積み込む、という密命が下されていたのです。
“国際法上の信義にもとる”と抗議する若い士官もありましたが。
司令官レベルの決定事項には逆らえようもありません。

シンガポールは多民族の、しかも非戦闘員がひしめく街であり、だからこそ連合国軍はむやみに攻撃を仕掛けることはありませんでした。
それと同様に、非戦闘員が多数乗り組む弥勒丸は攻撃されないはず、と言う目論みです。
まるで人間の盾として、何も知らされない居留民たちは、やっと祖国に戻ることが出来る、と安心して乗り込んでいったのです。
まさに、人間の盾として。

その中に、子供たちを連れた百合子がいました。
土屋は、弥勒丸の正体を知っていたために、彼女らの乗船を拒もうとしましたが、それが軍の上層部の意向に反したとして、機密漏洩の嫌疑をかけられ、逮捕されてしまいました。
人々の間には「連合国軍が次に標的にするのは昭南島である」という噂が故意に流され、そのために我も我もと、弥勒丸への乗船希望は膨らんでいき、最終的にはその総数が2000名を超えたのです。

彼の正体

軽部たちは、宋英明に呼び出されました。
宋は日本人でした。
そして、弥勒丸の“当事者”だったのです。
右目は沈没後の漂流で失われ、左目は重油を浴びた影響で今はすでに殆ど視力が残っていないのだと言います。
それでも彼は___「必ずこの目で弥勒丸を見る」…そのために生きてきた、と律子に言ったのです。

部屋に流れている音楽は“シェエラザード”。
カラヤンが指揮するベルリン・フィルのCDでした。
それは宋の心をあの時に引き戻す戒めのような調べだったのです。

シェエラザード

ソ連のナホトカで積み込んだ荷物にあったレコード盤の“シェエラザード”。
それはアラビアンナイトの物語を織り込んだ美しい管弦楽曲でした。
宋英明はまるで昨日のことのように弥勒丸を語ります。
その記憶のなかに被るのは、シェエラザードの美しいメロディだったのです。
船内に流れるその曲は、人々の慰めでした。

昭南島に接岸したとたんに、本来の運行をつかさどっていた軍属の船長や正木、堀らも体よく軟禁され、南方総軍らの支配下に置かれてしまいました。
本来の目的を逸脱させられたその船は、軍の扇動を信じた非戦闘員であふれ、その船倉には軍費となるべき金やプラチナが詰め込まれていたのです。
そして、有無を言わせず出向…航路を逸脱してしまった。
その詳細については謎のままですが。

安導権をもつ船の義務である夜間の照明を消されたまま上海を目指した弥勒丸は嵐の中、4月25日の夜に数隻の潜水艦に待ち伏せされたのです。
魚雷を受けて沈みゆく弥勒丸には、古い蓄音機から船内に向けて、シェエラザードが流れていました。

栄光のパッセンジャー・シップ、誇り高い弥勒丸は、その時不条理と矛盾を抱えたまま波間に消えたのです
「正木さん___」
律子の声に、宋英明の背中が弾かれ…そして「生きて再び、その名を呼ばれるとは思わなかった」と呟くのです。
彼、宋英明=正木中尉の意思を以て、弥勒丸は引き揚げられるのでしょう。
戦後、半世紀の時を超えて。

見どころ

阿波丸事件・・・この物語にはモデルになった船と事件があります。
昭和20年の4月に、シンガポールから日本に向かっていた“阿波丸”が、2000名を超える乗客・乗務員もろともに撃沈されたのです。
この船は、本来は日本郵船が建造した貨客船でした。
同列のシリーズには、戦争を乗り越えて現在横浜に停泊している氷川丸があります。

阿波丸はオーストラリアへの豪州航路に就航する見込みで豪華な内装の客室もつくられていた、とのことです。
それが、日米開戦とともに陸軍徴傭船となり、太平洋上を行き交い、物資の輸送などに活用されるようになったのです。

昭和19年になると、戦況が悪化するなかで、日米で捕虜らへの物資を相互に輸送する協定が結ばれ、阿波丸には『安導権(安導券)』という病院船と同等の保護が約束されました。
船体には大きく緑十字がペイントされ、他の艦船と区別するために、夜間に照明をつけて航行することも認められていたのです。
昭和20年2月、中立国のソ連・ナホトカで救援物資を搭載し、阿波丸は、門司、高雄港、香港を経由してシンガポールに向かいました。

撃沈の謎

阿波丸に出された安導権では、往路・復路ともにその安全が保障されたはずでした。
その際、一般人や文官ら、非戦闘員の輸送は黙認された、ということですが。
日本軍はその船を軍事輸送に利用しました。
もともとシンガポールに滞在していた船員や商社の社員、官吏に加え、軍人・軍属、さらに金属や重油といった資源を積み込んだのです。
そうした秘密の軍事物資の積載量が多く、船の喫水線の具合からも本来の目的以外の使用が窺われ、米軍にもその情報が伝わっていた、といわれています。

当時、米潜水艦隊司令官は阿波丸に対する攻撃許可を申請していました。
3月26日にいわゆる沖縄戦が始まり、東シナ海を中心に俄かに状況が悪化していた頃のことです。
その二日後、28日にシンガポールを出港した阿波丸は日本へ向かいました。
4月1日の夜半、往路では安全を確保するために点けていた照明も、軍の指示で消されていたというのです。

阿波丸は、予定の航路を外れ、台湾方面へと転進したところを米海軍の潜水艦クイーンフィッシュが探知、魚雷を発射し、その3発が船体に命中し、船員一名のみが収容されたものの、それ以外の2000名以上と軍需物資があっという間に海に沈みました。
この事件に関しては、阿波丸に対する攻撃停止命令が米軍内にきちんと伝達されていなかった可能性がありました。

錯綜した情報と、阿波丸を軍艦と誤認した上に確認しなかったこと…結果的にクイーンフィッシュの艦長は軍法会議で有罪の判決を受けています。
この米海軍の明らかな戦時国際法違反に対し、当時から抗議はされたものの、終戦後の賠償交渉も二転三転することとなり、決着つくまでに5年もの時間が費やされることになったのです。

安導権とは?

英語圏ではSafe conduct(セーフ・コンダクト)と呼ばれており、戦時下・紛争地帯などで
特定の人物が安全に通行できるための許可・通行証・通行文書を発行すること、またはその文書をさします。
古くは、中世のキリスト教の巡礼が聖地エルサレムまでのイスラム圏を安全に通行できるように授けられていました。

本来、その通行のスケジュールやルート、標識などが指定されており、それが『安導券』には記されているのです。
…阿波丸は、その目的が軍によって捻じ曲げられたこと、沖縄戦などの影響と軍の指示で航路が予定のルートを外れてしまったこと、夜間に照明をつけていなかったことなどの悪条件が重なり、攻撃対象となりうる軍艦と誤認されてしまったのだ、というのです。

総力戦研究所_「昭和16年夏の敗戦」

特務機関を率いていた内務官僚の小笠原が、開戦前に所属していたのが“内閣総力戦研究所”です。
これは“総力戦研究所”として実際に開設された機関です。

昭和15年、当時の日本のトップクラスの文官・武官を招集して構成された研究所でした。
悪化の一途をたどる世界情勢をみつめ、日本が戦争をしたらどうなるか、ということをシミュレーションするという、当時としては画期的な研究をしていました。
昭和16年の夏、模擬内閣を構成し、日米開戦を想定して様々な条件を検討し、具体性を持って研究予測を繰り返していった結果…それはソ連の参戦までも引出し、敗戦必至という結論になり___その結果はリアルな日本の歴史ほぼそのままなぞるものとなりました。

この当時の詳細をまとめた本があります。
その結果をもってしても、戦争は回避できなかったという事実を克明に描いています。
…都知事とかやってる場合ではなかったような気がしますよ、猪瀬さん。
興味のある方は、是非著書をご一読ください。

「悲惨さの中和」という言葉

下巻の巻末にミステリー評論家の吉野仁氏が解説を寄せています。
その中で、興味深いことが語られていました。
浅田次郎さんは、実は若い頃に、まさにこの阿波丸にまつわる話を聞いていた、というのです。

俗にいうM資金のように、「阿波丸には財宝が積み込まれている」という話、そしてそれをサルベージしませんか、という怪しいビジネスの誘いをうけたことがある、と。
いつの時代にもそういう話は何かしら発生するものですが。
そうした体験があるからこそ、この物語の現代パートの生々しいやり取りが生まれたのかと思うと、感慨深いものがあります。

浅田氏はそんな体験から阿波丸のことを知り、そしてこの事件を調べていくほどに、歴史に埋もれつつあったその事件の悲惨さに直面していったのです。
タイタニック号の沈没での死者は1513人。
民間の貨客船としては、軍人を含むとはいえ、一度に2000名を超える犠牲者を出した阿波丸の事故は史上最悪の海難事故(事件)でしょう。
だからこそ。

この時代の物語であっても、あえてとてもロマンチックな男女の恋愛を織り込んでいったのだそうです。
南国、シンガポールでの恋人との再会、そして逢瀬。
「あのくらいの 歯が浮くようなロマンスが無いと なかなか悲惨さを 中和できない___」

ドキュメンタリーとして数字や記録を並べるのではなく。
その悲劇を生身の人間の物語に置き換えて再構築し、『シェエラザード』というコンテンツにして世に送り出した浅田次郎氏の意図は、これを過去のことではなく、今を生きる者たちに、よりインパクトを持って投げかけるところに重点をおいているのではないか、と考えます。
戦時下で、希望をもって阿波丸=弥勒丸に乗った人々の姿と。
平成の時代からその船に関わる歴史を紐解いていった者たち。

その間をつなぐ、長い時…秘密を抱えて生き抜いてきた者たちの再会。
巧みに織り込まれていった物語には、随所に“人知を超えた運命的な巡り会わせ”があり、読み進めていくうちにドキッとするシーンが何度も訪れました。
その瞬間、その感覚は、忘れえぬものとして心に残ります。

人間には肉体の死と、忘却によって存在を消されるもう一つの死があります。
忘れてはいけない大切なことを残し、投げかけてるために、浅田氏はこの事件をエンターテインメント作品として投げかけてくれたのではないでしょうか。

まとめ

ドラマ化に当たり、百合子の設定が堀の恋人と変更されていたり、限られた尺を最大限有効に使うことを念頭に再構成されていました。
また、昭和初期の貨客船の雰囲気を再現するために使われたのが、横浜に停泊している氷川丸です。

最近では、大河ドラマ「いだてん」でもロケに使われたこの船は、山下公園に停泊する博物館として多くの人に知られています。
この船も当時、病院船や引き揚げ船として長らく軍務についた過去がありました。
ドラマ版「シェエラザード」が放送された時、ドキュメンタリー版も放送された記憶がありますが、今ではみられないものばかりです。
堀=土屋=反町隆史と長谷川京子=百合子の戦時下の恋と。
仲村トオル=軽部と石田ゆり子=律子の関係。

そうした軸を絡め合わせて描かれた物語は、ドキュメンタリー以上に大きな何かを投げかけてくれた、と記憶しています。
それから時が流れ、記憶している人も少なくなってきたこの物語を、どうか、75年目の今、読んでみてください。

浅田次郎氏の筆致は、その時代の匂いやビジュアルを湧き上がらせ、脳内にその世界を鮮やかに浮かび上がらせてくれるものでした。
間もなく、75年目のその日が来ます。
今この季節にこの本を読み返すことが出来て善かった・・・そう思っています。

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(C) シェエラザード 浅田次郎 講談社

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