「下克上上等」の戦国時代。「是非に及ばず!」と信長が吐き捨てた本能寺の変から18年、裏切り業界に若きスターが誕生した。
関ヶ原の戦いでド派手な盾裏をやらかした、その男の名は小早川秀秋。彼を筆頭に、東軍に寝返った男たちの運命はなぜ大きく分かれたのか。
歴史を変えた裏切り~小早川秀秋
関ヶ原の戦いで、文字通り「天下分け目」メイカーになってしまった小早川秀秋。西軍を裏切った理由については諸説あるけれど、何はともあれ、その複雑な生い立ちを抜きにしてははじまらない。
そもそも秀秋は豊臣一族。秀吉の正室ねねの兄の子であり、幼少より秀吉の養子として可愛がられ、豊臣秀次に次ぐ後継者と目されていた。ところが淀殿に秀頼が生まれたことで人生の歯車が暗転。秀頼誕生の翌年には、早くも毛利家の分家・小早川隆景へ養子に出されてしまった。ジジイめ、用なしになったとたんに厄介払いしやがって、今にみてろよ、と普通なら思うだろう。
関ヶ原の戦いが勃発したのは19歳のとき。秀秋は、毛利・豊臣と敵対する徳川家康ら東軍へ寝返った。もとより毛利家とは血のつながりのない養子の身。忠義心なんてない。
その軍勢は約1万5千(諸説あり)といわれ、関ヶ原諸将トップレベルの軍事規模を誇るキーマンでもあった。西軍からは「秀頼が成人するまでの関白職」、東軍からは「上方二か国を与える」といった飴玉を差し出され、内心は揺れ動いていたかもしれない。最終的には、開戦前に家康支持を表明した。
慶長5年(1600)9月15日、松尾山に布陣したままいっこうに西軍として戦わない秀秋。それが突如として山を駆け下り、味方である大谷吉継軍に襲いかかったのだから、襲われた側にしてみればPTSDものだろう。これがきっかけとなって戦局は一変。秀秋の裏切りは新たな裏切りの呼び水になる。
裏切ったのにお咎めなし~脇坂安治
これからご紹介する裏切り四天王のうち、この脇坂安治だけは秀秋と同じく合戦前に家康に内通の意思を示していたことがはっきりしている。
安治は東軍に与するつもりで関東に向かおうとしたところ、石田三成に阻止されたため西軍での出陣を余儀なくされた。心ならずも西軍に参加したのだから、裏切りに罪悪感はなかったはず。戦後処理では西軍に参加せざるをえなかった事情が考慮され、所領も安堵された。
安治は権力争いの行方を見定め、その下で実力を発揮する能力に長けていたようで、脇坂家は譜代大名として幕末まで続いていく。
事前に内通工作ずみ?~朽木元綱
朽木元綱の寝返りについては、合戦中に家康に書状を送って表明したという説と、秀秋・安治と同じく事前に通じていたという説があるが、後者の可能性が高いようだ。
合戦後に2万石から約9600石に減封されたという記録もあるが、これは合戦前に秀吉から安堵された約9200石とほぼ同じ。減封というよりは、旧領をそのまま下しおかれたとみるのが自然だろう。小早川秀秋に呼応して西軍を裏切ったのはシナリオ通りだったのではないだろうか。
所領没収の厳しい処分~赤座直保、小川祐忠
赤座直保が、いつ裏切りを決意したのかは明らかになっていない。率いていたのはおよそ600の兵だった。この数をみるかぎり、秀秋ら周りの諸将が寝返ったとあれば流れに乗るのも無理はない。直保に下されたのは改易処分。おそらく意思表示をしないまま、戦のさなかに寝返ったことが家康にうとまれたのではないだろうか。
直保はその後、前田利長に仕えたが、川が氾濫した際に濁流にのまれて溺死。悲運の死は土壇場で裏切った報いだったのかもしれない。
小川祐忠は、主君をコロコロと変えて戦国の世をサバイバルしてきた処世術の達人。赤座直保と同じく領地没収に処されたのは、嫡男の祐滋ともども石田三成と親しかったことが理由といわれている。また主家を次々と鞍替えしてきた経歴が家康に嫌われたと見る向きも強い。小早川秀秋の裏切り劇と、それに呼応した脇坂・朽木軍の寝返りに動揺し、連鎖的に東軍についてしまったのかもしれない。祐忠は関ヶ原の戦いの翌年に病死しているが、所領や家屋敷を没収されたショックで病に伏し、あげくに命までとられたのだとしたら、あまりに大きい代償といえるだろう。
戦国時代にもっとも嫌われた裏切りのパターンは、当日の戦況をうかがいながら分のあるほうに寝返るという、信念もへったくれもないパターンだった。家康の天下とりに貢献したのはみな同じなのだけれど、その後の運命の分かれ方はシャレにならない。
小早川秀秋の不可解な最期
さて、小早川秀秋はというと、上方二か国という飴玉は反故にされたものの、中国地方の大名になった。しかしその後は乱行の悪評が絶えず、関ヶ原の戦いからわずか2年後に数え年21で急逝。没後、小早川家は無嗣断絶により改易。なんと徳川政権の無嗣改易第一号になってしまった。
残っている病歴から、死因はアルコール依存症による内臓疾患、またはアルコール性肝硬変と推測できる。秀吉の後継者候補として7歳で元服させられた秀秋には、全国の諸大名が接近した。元服と同時に接待攻勢を受け続けた結果、12歳にしてアルコール依存症になっていたといわれる。
関ヶ原での裏切りは忠義にもとる行為ではあるものの、秀吉によって人生を狂わされた男の相応の決断であったとも解釈できる。数々の乱行伝説については、「時々狂気の振る舞いをし、尋常ではない行動が多くなった」と記録に残っているように、幻覚、妄想などが出現して正常な精神状態ではなかった可能性が高い。
もし小早川秀秋が壮健で、小早川家が長く続いていたとしたら、後世の評価はどうなっていただろう。「関ヶ原で家康を救い、天下をとらせた立役者」と称えられていただろうか。
「人面獣心なり。3年のあいだに祟りをなさん」
これは秀秋に襲撃されて自害した大谷隊の大谷吉継の言葉。後世の創作ともいわれているが、秀秋は本当に3年のうちにこの世を去ってしまった。減封や改易ではなく、心が壊れてしまうこと。それこそが裏切りのいちばん大きな代償だったのかもしれない。
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